サイゲームスより配信中のiOS、Android、PC(DMM GAMES)対応ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』で、2022年10月11日に新たな育成ウマ娘“星3[Fluttertail Spirit]ヤマニンゼファー”が実装された。その能力や、ゲームの元ネタとなった競走馬としてのエピソードを紹介する。

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『ウマ娘』のヤマニンゼファー

公式プロフィール

  • 声:今泉りおな
  • 誕生日:5月27日
  • 身長:154センチ
  • 体重:かろやか
  • スリーサイズ:B85、W52、H77

自然に親しみ、風を愛するふんわりウマ娘だがひとたびレースとなると、疾風のごとき走りで周囲を圧倒する一面も持つ。幼い頃に観たマイルレースで他を圧倒したとあるウマ娘に強く憧れており、彼女のような『風』になりたいと望んでいる。

出典:『ウマ娘』公式サイトより引用

【ウマ娘・元ネタ解説】“そよ風(ゼファー)”なんてとんでもない! “魂”の走りで史上初の3階級制覇に迫った“暴風”ヤマニンゼファーとは

ヤマニンゼファーの人となり

 誰にでも丁寧な言葉遣いで接する、おっとりとした雰囲気をまとったマイペースなウマ娘。

 名前の“ゼファー”はギリシャ神話の西風の神ゼピュロスが語源の言葉で、“西風”、“そよ風”を意味しており、ふだんの彼女もその通り穏やかなイメージである。また、風と自然を愛する一面があり、これはモデル馬の相棒であった柴田善臣騎手が釣り好きだったり、鷹や犬を育てていたりと自然と親しむ趣味が多かったことが影響しているという説がある。

 自然現象としてだけではなく、言葉としての“風”も好んでいるようで、会話中にも節々で“風”を用いたポエティックな言い回しをする。しかし、レースに臨んではつねに全身全霊、ライバルたちを蹴散らす“暴風”と化し、周囲を恐れさせているようだ。

 ゲームではニシノフラワーの育成シナリオでよきライバルとして登場。さらに1.5th Anniversary限定ストーリー第3話では最後に姿を現し、同じくライバルとなるであろうダイイチルビー、ケイエスミラクル、ダイタクヘリオスの3人を風になぞらえた言葉を残していた。

【ウマ娘・元ネタ解説】“そよ風(ゼファー)”なんてとんでもない! “魂”の走りで史上初の3階級制覇に迫った“暴風”ヤマニンゼファーとは

 なお、史実では美浦の厩舎に所属しており、対戦経験のある同い年のモデル馬にはナイスネイチャ、ツインターボ、ケイエスミラクルなど。ほかにもひとつ年上にダイイチルビーやダイタクヘリオス、イクノディクタスらが、ひとつ年下にはニシノフラワーやサクラバクシンオーらがいる。

 実装に先駆けて、2022年10月15日から公開中のテレビCMで勝負服姿がお披露目された。白を基調としたフリフリのドレスで、袖や腰回り、ストッキング(タイツ)に水色、差し色に赤が使われている。モデル馬の勝負服の、水色地、袖にはさらに赤三本輪が入ったカラーリングを反映しているのだろう。

競走馬のヤマニンゼファー

ヤマニンゼファーの生い立ち、血統

 1988年5月27日、北海道新冠郡新冠町の錦岡牧場にて生まれる。父はニホンピロウイナー、母はヤマニンポリシー。スプリンターとしての血統を意識された配合であり、その目論見通りに胴が詰まって(※)脚の筋肉が発達した、短距離馬らしい体つきで生まれてきたという。

※前脚と後脚のあいだのお腹の部分が短いこと。

 全体的なフォルムとしては、前脚や胸の筋肉が発達しているものの、全体的には小柄でシュッと締まっていて、グラビアアイドルもビックリしそうなウマ娘としてのスリーサイズの数字も納得である。

 脚質はその体型通り、豊かなスピードを活かして馬群の前方に位置取りし、それを維持しながら粘り込んで勝ちを狙う先行タイプ。ただ、デビュー直後は直線一気の末脚勝負もこなせていたように、融通が利く万能性も持ち合わせていた。

 一方で、当初は気性面が心配されていた。と言うのも、姉2頭(ヤマニンゼファーは3番目の仔)はいずれも気性難で関係者を苦労させてきたという悪い実績があったからである。しかしゼファーはとても素直な性格をしていて頭もよく、調教しやすい馬であった。それでいてレースでは騎手の指示がなくても抜群の勝負根性を発揮していたという。その内に秘めた闘志が、競走馬生活の晩年に最高の栄光をもたらすことになる。

 体質については、栗東トレセンへ入厩後に骨膜炎を発症してデビューが大幅に遅れてしまい、さらに3歳夏に再発させて若干の離脱を経験する、といったことがあったものの、スタッフの尽力もあって大きな病気やケガに悩まされることはなかった。3年間の競走馬生活では毎年コンスタントに6~7戦走る、馬主孝行な馬であった。

【ウマ娘・元ネタ解説】“そよ風(ゼファー)”なんてとんでもない! “魂”の走りで史上初の3階級制覇に迫った“暴風”ヤマニンゼファーとは

ヤマニンゼファーの血統

【ウマ娘・元ネタ解説】“そよ風(ゼファー)”なんてとんでもない! “魂”の走りで史上初の3階級制覇に迫った“暴風”ヤマニンゼファーとは

 父ニホンピロウイナーは通算成績26戦16勝、1983年から3年連続で優駿賞最優秀スプリンター(現:JRA賞最優秀短距離馬)に選出された、日本競馬史上有数の短距離馬。同い年には3冠馬ミスターシービーがおり、皐月賞で敗れている。その後は短距離路線に転向し、1984年のグレード制導入とともに創設されたマイルチャンピオンシップなど、1600メートルのGI競走を3勝している。

 マイル以下のレースで18戦14勝、2着3回と圧倒的な強さを誇り、それまで中長距離にしか注目されてこなかった日本競馬において、短距離&マイル路線の活路を切り拓いたパイオニアだった。短距離戦であれば、かの皇帝・シンボリルドルフにも勝てると言われていたほど。

 ヤマニンゼファーのプロフィールにある“幼い頃に観たマイルレースで他を圧倒したとあるウマ娘”とは、その実績からニホンピロウイナーのことだと思われる。

 ちなみに、ニホンピロウイナーとシンボリルドルフは1985年に1度だけ対決している。ただしその舞台は、短距離、マイルではなく2000メートルの天皇賞・秋だった。レースは伏兵・ギャロップダイナが勝利したものの、シンボリルドルフは2着、ニホンピロウイナーは半馬身遅れた3着。距離の壁こそ打ち破れなかったが、力を示した1戦となった。そのリベンジはヤマニンゼファーら次世代に託されることとなる。

 産駒ではゼファーのほか、高松宮杯(現:高松宮記念)やスプリンターズステークスを勝利したフラワーパークを輩出。競走馬としても種牡馬としても短距離&マイル路線で活躍を遂げた名馬だった。

 母ヤマニンポリシーは、その母(ゼファーの祖母)ヤマホウユウをアメリカに連れていき、わざわざブラッシンググルームの種を付けて産ませたという、大きな期待が懸けられていた馬。ヤマニンポリシー自身は19戦してわずか1勝と、競馬場では結果を残せなかったが、短距離に強さを発揮するであろうその血統から、母としての魅力があった。

 ちなみに自身もGIを5勝している名マイラーだったブラッシンググルームは、ヤマニンポリシーが生まれたころはまだ評価は高くなかったが、後に世界的な大種牡馬として24頭ものGI馬を輩出し、名を馳せることになる。彼を母の父に持つ有力馬には、ゼファーのほかにマヤノトップガンやテイエムオペラオーなどがいる。

 そんな両親から生まれたゼファー。ニホンピロウイナーが切り拓いた短距離&マイル路線で活躍させたいという願い、想いを背に、競馬場へと駆け出していくのであった。

ヤマニンゼファーの現役時代

※記事中では、年齢は現在の基準に合わせたもの、レース名は当時の名前をそれぞれ表記しています。

【ウマ娘・元ネタ解説】“そよ風(ゼファー)”なんてとんでもない! “魂”の走りで史上初の3階級制覇に迫った“暴風”ヤマニンゼファーとは

2歳(ジュニア級:1990年)

 8月、美浦の栗田博憲厩舎へと入厩したヤマニンゼファー。しかし、すぐに骨膜炎を発症してしまい早くも長期休養を余儀なくされてしまう。ようやく美浦へと帰還したのは、年の瀬も迫った12月のことだった。

3歳(クラシック級:1991年)

 美浦トレセンに帰ってきてからも骨膜炎の影響で調整が進まず、新馬戦期間も終わろうとしていた3月にようやくデビューが決まる。

 3月9日、中山競馬場のダート1200メートルで行われた新馬戦。骨膜炎が癒えたばかりの脚への負担も考えてダートコースが選ばれたが、血統的にも芝向きの馬であり、また臨戦過程への不安もあって、単勝のオッズは16頭中12番人気、69.1倍という低評価に。しかし、蓋を開けてみるとダートも重馬場もなんのその、横田雅博騎手を背に後方から豪快な末脚をくり出しての余裕たっぷりな差し切り勝ち。非凡な能力を見せ付けた。

 続く2戦目もきっちりと差し切って連勝を決めたゼファーは、中1週でGIIIクリスタルカップへと歩を進める。ここから鞍上は横山典弘騎手に。初となる芝でのレースだったが、ここを3着にまとめて陣営は重賞戦線でも戦える手応えを掴む。

 次戦には6月末の福島の3歳限定戦、ラジオたんぱ賞(現・ラジオNIKKEI賞)に狙いを定めたゼファー陣営。しかし、ここで骨膜炎が再発してしまい再度の長期離脱となる。ちなみに、ゼファー不在のレースはツインターボが逃げ切り、ゼファーに先んじて初の重賞制覇を飾っている。

 2度目の離脱から復帰したのは10月末の条件戦。脚の状態を考慮して再びダートで走り、7着に敗れるも、鞍上が蛯沢誠治騎手に代わった12月の復帰2戦目で勝利を挙げる。すると陣営は、またしても中1週でGIスプリンターズステークスへの出走を決断。まだ条件馬でありながら、力試しも兼ねて格上挑戦を行うこととなった。

 そしてレースは、ダイタクヘリオスとともに短距離・マイル路線を牽引していたダイイチルビーが貫禄を見せて勝利したが、その後ろでゼファーも7着と健闘。上位の馬たちとも戦える見通しが立ったことは大きかったようで、翌年前半の目標は安田記念と定められた。なお、同い年であったケイエスミラクル(レース中の故障で競走中止、予後不良)とはこれが最初で最後の戦いとなった。

【ウマ娘・元ネタ解説】“そよ風(ゼファー)”なんてとんでもない! “魂”の走りで史上初の3階級制覇に迫った“暴風”ヤマニンゼファーとは

4歳(シニア級:1992年)

 安田記念への出走権を得るためにも、まずはオープン入りを果たしておきたい。三度ダート路線に戻ったゼファーは、3勝クラスのレースで2着、1着と好走し、早々と条件戦卒業を決める。さらに前哨戦となるGII京王杯スプリングカップではダイタクヘリオス、ダイイチルビーよりも先着となる3着に食い込み、手応えを深めて安田記念へと向かうのだった。

 ニホンピロウイナーとの父子制覇も掛かっており、意気軒高と乗り込んだ安田記念ではあったが、単勝は11番人気、35.2倍とあまり支持は集まらなかった。芝コースではまだ3戦して未勝利であったこと、さらに不利とされる大外枠(18番ゲート)を引いてしまったことも影響していたかもしれない。

 そんな中、GI初勝利を狙う若手、田中勝春騎手を乗せたゼファーは絶好のスタートを決めると、スッと好位につけた。ペースは速かったが、そのまま早めに仕掛けて馬場のいい中央付近のコースからスパートを始めると、1番人気の有力馬・ダイタクヘリオスは坂の途中で余力がなくなって離れていく。最後はスタミナがあるカミノクレッセら中長距離路線の馬たちが迫ってきたものの、難なく逃げ切って勝利。人馬ともに初のGIタイトルを獲得するのだった。

 ダイタクヘリオスは6着、前年のマイルチャンピオンシップ勝ち馬のダイイチルビーも15着に沈むなど、場内には大波乱の空気が漂っていた。しかしゼファーは奇策を用いて勝ったのではなく、ただ先行して押し切るという王道の横綱相撲をしただけ。その早いスパートについていこうとした馬が、ことごとく沈んでいっただけなのだ。周囲を巻き込んでなぎ倒す。そよ風(ゼファー)ならぬ“暴風”の所業であった。

 ちなみにこのレースで2着に入ったカミノクレッセの前走は天皇賞・春。3200メートルからの超距離短縮だった。ここで、この春のカミノクレッセのGI出走歴を紹介しよう。

  • 4月26日 天皇賞・春 2着(1着はメジロマックイーン)
  • 5月17日 安田記念 2着(1着はヤマニンゼファー)
  • 6月14日 宝塚記念 2着(1着はメジロパーマー)

 現代の競走馬ではありえないローテーションで、どれも2着。力のあるところは示していたが、負けたのは歴史に名を残すような馬ばかりで、運と時代が悪かった。けっきょくGIには手が届かず、シルバーコレクターとして愛されたカミノクレッセだが、生まれた時代が違えばタイトルを手にしていたのかもしれない。

 さて、春の最大目標を達成したヤマニンゼファー陣営は、リフレッシュのための休養を挟んで引き続きマイルチャンピオンシップ、スプリンターズステークスというマイル~短距離路線を目標にすることに。

 しかしなかなか勝ちきれず、初戦のセントウルステークスは2着、マイルチャンピオンシップはレコードタイムを叩き出したダイタクヘリオスにリベンジを許して5着に終わる。さらに、スプリンターズステークスは理想の展開で進み「勝った!」と誰もが思ったところを、超新星の3歳牝馬ニシノフラワーにクビ差かわされて2着に終わるというツラい結果となった。

5歳(シニア級:1993年)

 5歳になったゼファー。そろそろ引退後の身の振りかたを考える時期となり、陣営は種牡馬入りした際の箔をつけるべく中距離のタイトル、天皇賞・秋への出走を計画していた。そして春は前年に続いて安田記念を目指しながら、距離適性などを見極めていくことに。

 初戦のマイラーズカップは再びニシノフラワーとの対決だったが、またも2着に敗れる。すると次戦は1800メートルと過去未経験の最長距離である中山記念へ。ここでは4着と敗れるものの、内容もまずまず、結果もあまり差のない上位に粘れたことから、陣営も中距離への可能性を見出すのだった。

 しばらく結果を出せずに物足りない状況が続いていたゼファーだったが、京王杯スプリングカップでは前年の安田記念以来、11ヵ月ぶりの勝利。連覇を目指す安田記念を理想的な状態で迎えられたのである。

 1993年の安田記念は、まるで前年の同レースを再現したかのような“ヤマニンゼファー劇場”が展開する。またしても外枠(14番ゲート)を引いてしまったものの、スタートをバッチリ決めて無理なく2番手に入りレースを進める。そして先頭で最終コーナーを回ると、自身のすぐ後ろで競り合う後続を尻目にゴールへの最短ルートをひた走った。

 前年のカミノクレッセと同じく天皇賞・春から参戦したイクノディクタスが強烈な末脚で最後に追い込んできたが、“暴風域”にさえ近づけずに終戦。ゼファーが見事なレースぶりで連覇を達成することとなった。前走の京王杯スプリングカップからコンビを組む柴田善臣騎手はこれがGI初勝利。ゼファーは田中騎手、柴田騎手という、現在もジョッキーを続けるベテランのふたりに初のGI勝利をプレゼントしたのだった。なお、1番人気に支持されたニシノフラワーは最後に失速し10着に終わった。

 さて前述の通り、この後の目標は天皇賞・秋である。そのレースには、8年前に父ニホンピロウイナーが惜敗した、皇帝シンボリルドルフの子であるトウカイテイオーも参戦を予定していた。短距離の絶対王者であった父もなし得なかった距離の壁の打破と皇帝へのリベンジ、そのふたつに挑戦できる機会はもうすぐだった。

 だが、トウカイテイオーは宝塚記念を前になんと骨折をしてしまう。10月に帰厩したものの天皇賞・秋には間に合わず、有馬記念へ向かうことが明らかになった。このあたりはテレビアニメ第2期で描かれた通りである。

 最大のライバルは消えたが、やることは変わらない。本番を3週後に控えた10月10日、ゼファーは前哨戦である毎日王冠へと出走。試金石として挑んだレースで安田記念同様の先行策を採用するも、最後に失速して6着という結果に終わる。やはり距離の壁なのか……。陣営は本番までのわずかな時間で、スタミナ強化に取り組むこととなる。

 しかしそのあいだに、事態は大きく動く。多くの競馬関係者、競馬ファンから本命視されていたメジロマックイーンがレース4日前に故障し、その2日後に引退を表明したのである。3連覇をかけた天皇賞・春でライスシャワーに敗れたものの、その後立て直して宝塚記念、京都大賞典と連勝していただけに離脱は衝撃的だったが、これは同時に多くの馬にとってチャンスが到来したことを意味していた。

 単勝1番人気はライスシャワー。2番人気にナイスネイチャ、3番人気はツインターボで、ゼファーは前走の内容がよくなかったこともあって5番人気に落ち着いた。

 レースはツインターボがいつものように逃げを打ち、ゼファーは集団前方、2、3番手につける。ツインターボがいないものと考えれば、勝ちパターンの定位置である。そして最終コーナーでツインターボを捉えると、最後の直線で単独先頭に躍り出る。これまでと異なり、余力は十分。あとは坂を駆け上がるだけ……と思われたが、外からかつての相棒・田中騎手に導かれた6番人気セキテイリュウオーが猛烈な勢いで突っ込んできた。

 近寄る者をなぎ倒すような根性を持つ“暴風”ゼファーであったが、相手が暴風域の圏外では戦えない。柴田騎手は外側に進路を取ると、セキテイリュウオーに並びかけた。勢いはセキテイリュウオーのほうが上だったが、競る形になったことでゼファーのド根性が発動、みずから再加速して再び前に出る。“暴風”のカラクリとは、相手を競り落として消耗させるという、類いまれな勝負根性がなせるワザであったのだ。

 セキテイリュウオーも悲願のGI制覇に向けて粘ったが、脅威の根性でスタミナを補完したゼファーが最後ハナ差前に出て勝利。父ニホンピロウイナーをも苦しめた“距離の壁”を打ち破り、天皇賞・秋を制したのであった。

 年末には昨年に続きスプリンターズステークスへ参戦。史上初となる短距離、マイル、中距離の3階級GI制覇が掛かったレースで、条件戦以来となる自身2度目の1番人気となるも、本格化したサクラバクシンオーの前に完敗する。そして、2着に終わったこのレースをもって引退することが決まった。

 生涯成績は20戦8勝(うち重賞4勝、GI3勝)、獲得賞金約5億8000万円。強力なライバルたちに揉まれながら、短距離、マイル、中距離の3階級で好走を続けた天才馬だった。

 気立てがよくて、まさにそよ風のようだった日常の姿と、ライバルたちを競り落とし、なぎ倒す暴風だったレース中の姿。そのギャップで多くのファンを魅了した彼には熱狂的なファンも多く、後に産駒や孫が出走する際には“ゼファー魂”と書かれた横断幕が掲げられていた。

引退後のヤマニンゼファー

 1994年1月30日、東京競馬場で引退式が行われ競走馬生活を終えたゼファーは、同年よりレックススタッドで種牡馬入りすることになった。2000年の武蔵野ステークスを勝ったサンフォードシチーなどを輩出するなど産駒はそこそこの活躍を見せ、2009年をもって種牡馬からも引退。

 その後は故郷の錦岡牧場で余生を過ごしていたが、8年後の2017年5月16日、老衰のために死亡した。前日もとくに変わった様子もなく、穏やかなものだったという。

【ウマ娘・元ネタ解説】“そよ風(ゼファー)”なんてとんでもない! “魂”の走りで史上初の3階級制覇に迫った“暴風”ヤマニンゼファーとは