「『ワンダと巨像』が好き。最高。あれを遊ばないなんて、人生損してる」
12年前、だれかれかまわずそう吹聴していた思春期の僕に“センスいいって思われたい”という欲求が微塵もなかったといえるだろうか。
ここに懺悔する。微塵どころか全部だった。モテたさだけで、伝説の名作を人に薦めていた。純粋に不純。一点の曇りもない、真夏の青空のようなスケベ心。
あなたの周りにもいたんじゃないか。『ワンダと巨像』をめちゃめちゃ褒めるくせに、どこがいいのか尋ねると
「“雰囲気”が、やべえ」
みたいな、ざっくりふんわりな表現でごまかす奴。その10倍ウザい男を想像してください。僕になります。
続く言葉も決まっていた。「なんつうかさ……。せつないんだわ、最後の一撃が」。
思い出して恥ずかしくなってきた。すごいな。自分の言葉がひとつもない。なにが「なんつうかさ……」だ。せつないのはお前の頭だ。
あと、こういうこと喋るときは決まって遠い目をしていたし、クラスの女子に聞こえるように大きくうわずった声を出していた。(うわずったのは本意ではなく、大声を出すのに慣れていないから)
あのころの僕はひたすらに空っぽで、読んだ本、観た映画、聴いた音楽、“他人のセンス”を寄せ集めれば、“自分”というものを定義できるのだと勘違いしていた。おしゃれなゲームを遊ぶことがおしゃれ。そんなわけないのに。
でも、いまは違う。心から『ワンダと巨像』の魅力を伝えたいと願っている。このレビューは贖罪だ。“雰囲気”という言葉はもう使わない。10余年の時は本作をどう変えたのかも含めて、ここに紹介したい。
命があるから、せつない
主人公ワンダは、愛馬アグロを駆り、16の巨像を破壊すべく封印の地を巡る。目的は失われた少女の魂を取り戻すこと――。
ストーリーに関してこれ以上特筆すべきことはない。想像を楽しむゲームだから、語りすぎるのはむしろ野暮だろう。
まず論じたいのは、登場人物たち――ワンダとアグロはもちろん、巨像にまで感じられる“命”の躍動についてである。
命の表現にとことんこだわるアニミズム的やりかたが上田文人氏の作家性であり、『ワンダと巨像』の魅力の基盤にあると僕は考えるからだ。
生命力をもっとも顕著に感じるのは、巨像とのバトル。
巨像を倒すためには、彼らの身体のどこかで淡く光る“弱点”に剣を突き刺さなければならない。弱点は頭とか脊髄のあたり、つまりは高い場所にあることが多いから、ワンダはどうにかこうにか巨像の体表を登っていく。
そのために使うアクションが“ジャンプ”と“つかみ”。
R2ボタンを押している間、ワンダは巨像の身体に必死にしがみつく。ひと呼吸置いてはジャンプし、またつかむ。バトルの基本はそのくり返しなわけだが……この一連の動作、びっくりするぐらい爽快感がない。
普通、アクションゲームの動きって“触っているだけで気持ちいい”とか“人間離れしたカッコいい動作”とかがセールスポイントになると思うんだが、『ワンダと巨像』は一切気にしない。じゃあ、それらを犠牲にしてまで追求したものは何なのだろう。
答えは“爽快感のなさ”それ自体なんじゃないか。
ジャンプすれば慣性で転びそうになるし、ダッシュすれば脚が絡まりそうになる。巨像にしがみついている間は、ちょっと暴れられただけで動けなくなってしまう。
ワンダのアクションには、こういう“プレイヤーの操作を受け付けないフレーム”がかなり多い。コントローラーを操るプレイヤーの指先と、画面中のワンダの動きは100%一致しない。体感でシンクロ率80%くらい。
この不一致性には、ふたつの大事な意味があるように思う。
ひとつはリアルな肉体の表現。これはもう簡単な話で、自分の身体を思い描いた通りかんぺきに操れる人間なんてそうそういない。プロのスポーツ選手だって、理想のフォームのために練習をくり返すのだから。
気持ちよく動かすことすらままならない等身大の肉体は、むしろ現実に即していて、より真に迫った身体感覚をもたらしてくれる。没入感を100%以上に高めてくれる。無駄でしかない四肢のしなりとか、人間臭さがたまらない。
もうひとつは、“ワンダ”という生きた人格の表現。
くり返しになるが、もがいたり、ふんばったり、くらいついたりしている状態のワンダはこちらの指示を受け付けてくれない。プレイヤーの干渉を拒絶する、モーションとモーションの隙間。
僕はそこに、ワンダ自身の人格を見出してしまう。運命に抗おうとする必死さみたいなものを。「ワンダにとって、少女はよほど大切な存在なんだろう」と、彼のバックグラウンドに想いを馳せる。
本作の物語中に言葉で説明される情報は驚くほど少ない。ワンダの心理や目的について、彼自身の口から仔細が語られることもない。それなのに、プレイヤーが彼に感情移入してしまうのはなぜだろう。しかも、説明過多な作品よりずっと深く。それは何気ないアクションの一挙手一投足に命や感情を感じるからじゃないだろうか。
もちろん、ワンダの内面をどう捉えるかは人それぞれ違うだろう。10年前の僕は「ヒロインの顔がかわいいから助けようとしてるのかな」と思っていたし、そのうえでめちゃめちゃ共感していた。心から反省してくれ。
さて、ここまでワンダの話をしてきたが、魅力の本質とより密接に結び付くのはむしろ“巨像”の側ではないかと思う。なぜなら、本作を端的に表現したキャッチコピーこそ“最後の一撃は、せつない”であり、それはおそらく巨像の命が尽きる瞬間を示す言葉だからだ。
巨像は、有機物と無機物、生物と無生物のちょうど中間のようなビジュアルをしている。
たとえば体表は土か岩のようでいて、硬い皮膚のようでもある。そんな身体の一部には、体毛がまるで苔や草のように生い茂り、ワンダはこうしたふさふさを掴んで巨像を登っていく。同じことされたら、いやだなあと思う。脱毛サロンを予約する。いにしえの地に、ホットペッパーはあるのだろうか。
巨像には人型の個体や、獣をモチーフにした個体がいる。とくに後者は動きからモデルの動物を想像できて大変かわいらしい。習性までそっくりなやつもいて、実家の猫を思い出してしまったりする。
いろいろな情報を総合した結果、よくわからんけどそういう生命体なんだろうな、という気がしてくる。『人喰いの大鷲トリコ』もそうだが、上田氏のゲームはこの「よくわからんけどそういう生命体なんだろうな」にかける情熱が半端じゃない。
そしてどうやら、みんな共通して痛覚があるようだ。突き刺すたびに体をよじり、ワンダを振り落とそうと暴れまわる。これでは、どちらが悪者かわからない。
というか、実際にそうなのだろう。ワンダが巨像の命を奪うのは、エゴでしかないのだから。
そろそろ説明過多のような気がする。このあたりでまとめると『ワンダと巨像』の本質的な魅力とは、言葉では語られない情緒的体験であって(=ワンダの物語への“共感”や、死を想起させる“せつなさ”であって)、その前提には上田氏が得意とするいきいきとした“命”の表現があるように思えてならない。
進化した映像と、変わらない本質
さて、ここからはプレイステーション4版で何が変わったのか、あるいは変わらなかったのか紹介していく。
とにかく映像の強化が著しい。風にそよぐ草、透きとおる水の表現、洞窟に差し込む光、もともと美しかった自然の表現が、より美麗になって帰ってきた。没入感が格段に向上している。
巨像との戦闘も大きく迫力を増した。
背の高い人型巨像や、飛行タイプの巨像に登ったときは、とくに差を感じられる。遠くの地面がはっきりくっきり見えるから、「あ、この高さから落ちたら死ぬわ」という直観的な恐怖に襲われる。ボタンを押す指にも力が入る。
また、巨像のビジュアルそれ自体も、体毛の一本一本まで緻密に描かれていて、より細部まで魂が宿ったように感じた。
ムービーの内容や演出は基本的にそのままなのだが、きれいに作り直されているおかげで、細かい部分にまで気がつけるようになった。新たな発見があって、ストーリーの考察がより楽しくなっている。
追加されたフォトモードでは、カメラをぐりぐり動かしたり、フィルターをかけることができる。こういう機能があると、どうしてもSNSウケしそうなおもしろ画像を狙ってしまうんだが、本作の場合はどちらかというと“美しい写真”を撮るのに特化したシステムになっている。“Twitter映え”よりも“インスタ映え”って感じだ。
一方で、それ以外のゲームの主幹はほぼ変わらない。巨像の倒しかた、成長のシステム、ストーリーなどに大きな変化は見られなかった。完全に作り直しているわけだから、ここまでそっくりそのままなのはすごい。色褪せない物語を、2018年のクオリティーでもう一度味わえる。“14の巨像”の起きハメまで忠実に再現されてるのは笑ったが。
ただ、そっくりそのままゆえに、ちょっと古さを感じてしまう点も否めない。
クセの強いカメラワークは顕在だし、ファストトラベルもない。映像は派手だが相変わらずアクションは地味だ。
でも、仮にファストトラベルが実装されたら、それはもう『ワンダと巨像』じゃないとも思う。ワンダが必殺技とか使い出したらめちゃめちゃ笑う。自分の脚で大地を歩いてこそ、自分の腕で剣を突き立ててこそ、感じられるものがあるはずだから。
“フルリメイク”を謳ったプレイステーション4版。遥かに美しくなった映像は、その表現をより高みへと導いた。命はよりリアルに描かれていて、没入感はさらに増している。
でも、ドキドキして蓋を開けた割には、本質の部分は何も変わらなかった。つまり前項で述べたような、理論や言葉で説明するのが難しい、胸を締め付けられる情緒的な体験は。12年前の僕に遊ばせたなら、相も変わらず、中身のない賛辞をくり返すのだろう。
変わったものがあるとしたら、それは自分自身だ。
あのころの僕はからっぽの自分を埋めたくて、読んだ本、観た映画、聴いた音楽、“他人のセンス”を寄せ集めた。もしかしたら、それはわりかし普遍の悩みで、このときも、同じように“からっぽ”を嘆いている少年少女がどこかにいるのかもしれない。
おしゃれなゲームを遊ぶことがおしゃれ。そんなわけない。そんなわけないが、いつか自分が何かを生み出すための栄養になる。少なくとも僕はそうだった。ちょっとくらいは、自分の言葉で物を語れるようになった気がする。
だから、現代に新生した『ワンダと巨像』が、電車やスタバでたまたま隣に座った中高生の会話から、再びあの、ざっくりふんわりした言葉を引き出してくれることを願わずにはいられない。
「“雰囲気”が、やべえ」
(TEXT:戸部マミヤ)