1984年4月9日、当時大学生だった中村光一氏を中心に創立され、現在はスパイク・チュンソフトの名でおなじみのゲームメーカー、チュンソフト。『ドラゴンクエスト』シリーズの開発で名を馳せ、その後『弟切草』に始まるサウンドノベルシリーズ、そして『不思議のダンジョン』シリーズ、さらには『3年B組金八先生 伝説の教壇に立て!』や『ZERO ESCAPE』シリーズなど、ディベロッパー、パブリッシャーの両方の立場からゲーム業界へつねに新風を吹き込んできた。
同社の創立メンバーのひとりで、長年に渡って営業、販促、広報などを務め、現在はゲーム専門のローカライズや開発支援ベンダーであるキーワーズ・インターナショナルと起業支援を手掛けるツクリエに所属する中西一彦氏の誕生日(4月28日)を祝う会として、3年前から始まったのが“428 ご縁の会”。業界内外のさまざまな人材が集う交流会にもなっており、昨年からは100名を超える人々が参加している。さらに今回はチュンソフト35周年のメモリアルイヤーということで、中村氏を始めとした黎明期のメンバーたちが集い“チュンソフト35周年記念トークショー”も開催されるという。
こんな貴重な機会を逃す手はない、ということでファミ通.comの記者も同会へと潜入。会の模様を取材してきた。
和やかな雰囲気の交流会
東京・渋谷のドクタージーカンズで行われた“428-9 ご縁の会 2019”。恵比寿、三田と来て3年目(前回)からついに渋谷(428)で開催することとなったこの会、ゲーム業界だけではなく、音楽、マンガ、アニメや麻雀などエンタメ関係やマスコミなどさまざまな業界から200名以上の人が集まった。
イベントの雰囲気はかしこまったものではなく、ビュッフェのような形式で自由に飲食をしながら他の来場者と交流をしたり、ステージでのトークショーなどを楽しむ、自由なものとなっていて、トークショーもいい意味で“ゆるい”テンションでくり広げられていた。
冒頭のあいさつでは、中西氏の出身地である広島県の高校の後輩たちが登場。20以上も学年は離れているが、いまこうして仕事で同窓の後輩と繋がりがあることに中西氏も感慨深そうにしていた。続いて、現在仕事をともにしているキーワーズ・インターナショナルのスタッフが登場。海外出身の“ボス”は、日本のゲームに憧れて日本語を勉強し、ついには日本へ移住するまでにもなったと、流暢な日本語でエピソードを披露してくれた。
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(写真提供:SuperStrongDさん)
さらに、もとチュンソフトでサウンドノベルシリーズや『トルネコの大冒険』の開発に携わってきたゲームクリエイター、麻野一哉氏と小説家の山川沙登美氏が登場。麻野氏の半生のエピソードを参考にゲーム作りをテーマにした物語を描く新刊『あの日 勇者だった僕らは』の紹介をしていた。15年間をチュンソフトで過ごした麻野氏のエピソードがモデルとなっているため、この本を読むと当時のチュンソフトの様子もうかがい知れる……かも!?
『あの日 勇者だった僕らは』
あらすじ
「あ、もしもし、お母ちゃん? 僕な、ゲーム会社に入ることになってん!」
兵庫県尼崎の中学校の同級生、牧谷勇と神田祐一郎。銭湯のピンボールで始まったふたりのゲーム熱は、やがてふたりをゲーム業界へと導いた。まるでゲームのキャラクターのように個性的な仕事仲間に囲まれながら、ふたりはゲームクリエイターへと成長していく。日本のゲーム業界創成期を舞台にした、抱腹絶倒の青春物語。
著者:山川沙登美
解説:麻野一哉
発行:京都造形芸術大学 東北芸術工科大学 出版局 藝術学舎
発売:幻冬舎
価格:1300円[税抜](1404円[税込])
青春、感動、爆笑!? チュンソフト35周年記念トークショー
乾杯から10数分が経ち、来場者も雰囲気に慣れて賑やかになってくると、壇上にふたたび中西氏がスパイク・チュンソフト会長の中村氏をともなって登場。何やらプレゼントがあるとのことだが……とにかく箱が大きい。中村氏がソロリソロリと蓋を開けてみると、そこには創業35周年をお祝いする大きなケーキが! 『風来のシレン』のイラストをプリントしたチョコレート付きで、多くの人が集まって記念撮影をしていた。
そしてそのまま“チュンソフト35周年記念トークショー”へ。中村氏、中西氏に加え麻野氏や、『ドラゴンクエスト』シリーズのメインプログラマーとして活躍してきた山名学氏と、チュンソフト黎明期の主要メンバーが集って行われた。
中村氏、中西氏ら、当時大学生だった5人のメンバーで創立されたチュンソフト。もともと中村氏と中西氏は同じ大学(電気通信大学)で同じクラスになり、学籍番号も1番違いという縁もあって知り合ったのだという。そして中西氏が中村氏の家に出入りするようになって、大学1年時の春休みにチュンソフトを作ることに。
最初のお互いの印象は
「(中西氏が)ふつうの会話で広島弁を喋っていて驚きました」(中村氏)
「出身地が近い(中西氏は広島県、中村氏は香川県)ので勝手に親近感を持っていました」(中西氏)
というものだったのだとか。
そしてパソコン雑誌などで中村氏がプログラマーとして有名人になっていき、チュンソフト創立から2年後に中村氏に憧れて山名氏が加入することになる。中村氏については、「雑誌では天才肌だと感じていましたが、実際に会ってみたらすごく話しやすい人でした」と山名氏は語っている。
一方、麻野氏は山名氏入社の翌年、1987年にメンバーに加わる。「『ドラゴンクエスト』シリーズのファンだったのですが、『II』をプレイした後『III』は自分で作ってみたくなりまして」と語る麻野氏。初めて中村氏に会ったとき、何を言われるでもなくいきなりタバコを勧められたことをよく覚えている、と場内の笑いを誘っていた。
そうしてメンバーが揃ったチュンソフトは、ディベロッパーとしてだけでなくパブリッシャーとしてもその歩みを進めていく。
『テトリス2+ボンブリス』といった意外なジャンルの作品を手掛けた後、自社ブランド第1号として発売したのがサウンドノベル『弟切草』。「反射神経を必要としない、誰でも楽しめるものに」(中村氏)、「スーパーファミコンは、じつはサウンド面でもかなり高い性能を持ったハードだったので、ビジュアルとサウンドを活かしたものを考えていました」(麻野氏)など、前例に囚われないオリジナルタイトルを目指して制作される。その斬新さが大ヒットへと繋がるのだが、それだけに売り込むのには相当苦労したようで、当時に思いを馳せた中西氏は前例がないくらいの遠い目をしていた。
(写真提供:いたのくまんぼうさん)
反対に、システムは新しくても『ドラゴンクエストIV』の人気キャラクター、トルネコを主人公にした『不思議のダンジョン トルネコの大冒険』は営業的にはとても売りやすかったのだそうだ。サウンドノベルシリーズと並び、1990年代のチュンソフトを牽引するシリーズとなった『不思議のダンジョン』だが、第1作が売れたおかげでオリジナルキャラクターを主人公とした『風来のシレン』も受け入れられやすくなる。あえて『ドラゴンクエスト』シリーズの世界観をハミ出し“予想外なおもしろさ”を追求した『シレン』は大成功を収め、ファンが“死にざまを自慢する”などそれまでにない遊びを生み出すことになった。
上記の2シリーズを始め、現在に至るまで、一貫してオリジナリティーの強い作品が数多く輩出されてきた歴史があるが、作り手としては「“らしさ”というのはあまり考えていませんでした」(麻野氏)と、オリジナルにはそこまでこだわっているわけではないのだという。一方で、「止めてくれる人がいないので」(麻野氏)、とことん“こだわり”が入ってしまっていることには気付いていたようだ。止める人がいないということについては、統括する立場の中村氏自身が「スタッフ皆が思い思いに自分が“おもしろい”と感じるものを作っていたので、それが集まったらオーケーだと思っていました」と明かしていたように、その自由すぎる社風がクリエイターのこだわりを阻害せず、結果としてオリジナリティーを生み出していたのかもしれない。
最後に、これまでの思い出を各人が振り返っていく。
麻野氏は、自身の思い出の多くは先の『あの日 勇者だった僕らは』で語ってもらっているとしつつ、「都合の悪い内容は(自身をモデルにした)主人公ではない登場人物にやってもらっています」と正直に告白。そう言われるとどれが本当の麻野氏のエピソードなのかを探したくなってしまう読者心理を巧みに突いた、セールストークで締めてくれた。
当時よく物に当たっていたという山名氏は「よくパソコンを殴り壊してしまってすみませんでした」と謝罪。しかし、じつはその壊れたパソコンの破片を吸い込んで会社の掃除機が壊れてしまうなど、二次災害も起きていたという事実も白日の下に。
そしてこの会の主役である中西氏。「最初にチュンソフトを辞めたのも、復帰したのも、さらにもう一度辞めたのも僕が最初です」と、思わぬ方向での“レジェンド自慢”に場内は大爆笑。そうしておいて「こうして大勢の方々に集まっていただいて、チュンソフトを作ってよかったなと思いました」と、泣かせるコメントを続けるトーク力はさすがのひと言だった。
最後に中村氏にマイクが向けられると、話題は2019年6月17日にサービス終了予定となってしまった、中村氏と麻野氏が開発に携わった位置ゲー『テクテクテクテク』に。中村氏は何度となく残念がりつつも「これからも楽しいゲームを作っていけたら!」と次なる挑戦に衰えぬ意欲を見せていた。