2001年にプレイステーション2用ソフトとして発売され、国内外から絶賛されたアクション・アドベンチャーの名作『ICO』。生みの親である上田文人氏と、上田氏とともに『ICO』以降のすべての作品に携わってきたプログラマーでもある、洞谷仁治氏による対談をお届けします。

 20周年の節目に語られたのは、ゲーム作りを志したきっかけから、ふたりの出会いと『ICO』の誕生、そしていまに至るまでのジェン・デザインでのクリエイティブについてのお話でした。

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【ICO 20周年】ジェン・デザイン 上田文人氏×洞谷仁治氏 対談『ICO』と20年

上田文人(うえだふみと)

ジェン・デザイン代表取締役。『ICO』、『ワンダと巨像』、『人喰いの大鷲トリコ』でディレクターを務める。

洞谷仁治(ほらがいじんじ)

『ドラゴンクエスト』シリーズを始めとする国民的作品の開発を経て、上田氏とともに『ICO』以降の作品に携わり、ともにジェン・デザインを設立。

少年のころ

【ICO 20周年】ジェン・デザイン 上田文人氏×洞谷仁治氏 対談『ICO』と20年

――まずは、『ICO』から少し離れるものの、おふたりがゲーム作りに興味を持ったきっかけといいますか、子どものころの遊びなどのお話から伺わせてください。

洞谷子どものころですか。僕はもう、『スペースインベーダー』のブームでした。

上田インベーダーブーム直撃世代ですかね。

洞谷うん。子どものころは遊びに出かけるとなると、よく父親がバッティングセンターに連れて行ってくれたんです。で、バッティングセンターのバックヤードには、よくゲームの筐体が置いてあったじゃないですか。

上田ありましたね。僕は昔バッティングセンターでアルバイトしていたのでわかります(笑)。

――そうなんですか!?

上田高校時代にアルバイトをしていた店舗にも、ゲーム機は置いてありましたね。デパートの施設などにもエレメカやテーブル筐体が、よく設置されていましたよね。

洞谷そこにインベーダーゲームがあるものだから……もうバッティングどころじゃなかった(笑)。見事にはまりましたが、やっぱり衝撃的でしたね。“ブロック崩し”などのビデオゲーム自体は一応存在していた時代なんですけれど、『スペースインベーダー』には、独特な雰囲気がありました。ほんとうに何か違うというか……匂いも違ったんですよ。

――匂いまで(笑)。

上田“インベーダーハウス”と呼ばれる『スペースインベーダー』を遊ぶための場所があったくらいですからね。それまではただのドットだけで表現されていた記号的な存在が、“インベーダー”というキャラクターとして描かれたというのは衝撃だったんでしょうね。ほんとうに宇宙人が攻めてきた的な気持ちにさせられるというか。

洞谷うん。その後『ギャラクシアン』や『パックマン』が登場して深みにはまってしまい、中学生のころあたりで、父親が電気系の会社に勤めていたこともあって、NECのマイコンを買ってもらえて。

上田それって14歳くらいのときですよね。PC6001かPC8001のどっちを買いました?

洞谷8001だから、性能が高いほうかな。6001は廉価版みたいな位置づけでした。アスキーさんのマイコン雑誌に、プログラムのソースコードが掲載されていて、学校から帰ってきたらすぐに雑誌を見ながら手で打ち込んで遊んでいましたね。ゲームセンターにあるようなゲームが、家でできるなんてすごい! と。まあ、もちろんゲーセンのクオリティーにはぜんぜんかなわなかったですけど。

――マイコンがあるから「洞谷家にいくとゲームできるぞ」と、いろんな人が家に集まってきませんでしたか?(笑)

洞谷当時はみんなで画面を見つめて、「キーボードを押したら文字が出た」というだけでも、けっこうリアクションがよかったりして(笑)。でも、そのうち文字を打っているだけではおもしろくないので、自分なりにプログラムを覚えたりしていった感じですね。

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洞谷当時のプログラムは中身がとても単純なので、ひと山越えてしまえば、あとは覚えやすかったんですよ。いまみたいに暴力的なスペックのPCじゃないですから。逆にいまの時代のプログラムは複雑すぎて、スタート地点に立つだけでもたいへんですよね。いまだったらプログラマーは目指していなかったんじゃないかな。単純に遊べるところから入れたのが、自分自身としてはラッキーだったかなぁ。

――そのころ、上田さんが同い年くらいのときはどのような遊びに夢中でしたか。

上田そうですね……僕よりも洞谷のほうが若干年齢が高いので、『スペースインベーダー』はもちろんあったものの、思い入れがより深いのは、やはり家庭用ゲーム機ですかね。セガが好きだったので、セガマークIIIから入って、『スペースハリアー』とか……『スペースハリアー』に夢中になりました(笑)。

一同 (笑)。

洞谷ゲーセンの『スペースハリアー』じゃなくて、マークIIIの『スペースハリアー』?

上田うん。もちろんアーケードの『スペースハリアー』への憧れはあったけれど、田舎だったので、アーケードのムービング筐体がある店舗に行く機会も少なくて。なので、ゲーム誌に掲載されているアーケード版の画面写真を見て強くあこがれる、みたいな感じでした。

洞谷でも、家庭用ゲーム機は衝撃的でしたよ。なにしろ、自分の持っているパソコンの性能が負けるんですから。1万4千円いくらかの機械に。スプライトという機能がありまして、その描画のおかげで、キャラクターが自由に動かせる。それがPCにはなかった。

上田当時のPCゲームは、キャラクターを動かすためにはすべてのキャラクターの移動ごとに表示/非表示を行って、移動しているように見せないといけなかったから。でも、ファミコンで最初に『スーパーマリオブラザーズ』とか『ゼビウス』の移植などがラインアップされていたのを見て、画面がスクロールしていくのを体感したときには……なんでしょうね、「そこに世界がある」って感じがしましたよ。

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劇場版アニメーションの魔力

――ところで少し気になるのですが、中学生とか小学生の時好きだったものって、時が経ってもずっと好きだったりしませんか?

上田そうかもしれない……何が好きでしたか?

洞谷そうですね。やっぱり世代的に劇場版アニメでしょうか。自分は『宇宙戦艦ヤマト』から入って、『銀河鉄道999』から『機動戦士ガンダム』、そこから『風の谷のナウシカ』は劇場に足を運びましたね(笑)。

上田ああ、ぼくもずっと好きですね……アニメというか、同じくアニメ映画ですね。要はアニメ映画が好きなんでしょう。

――アニメ映画のどこに惹かれ続けてしまうのでしょうか。

上田なぜ好きなのか、となると、テレビアニメに比べると品質が高かったからかも。幼心にも、そのクオリティーの差をなんとなく感じていたのかもしれない。『ヤマト』とかは、自分にとっては少し上の世代というイメージですね。僕は『ドラえもん』の大長編とか。『のび太の恐竜』が、小学校低学年くらいでちょうど公開されていたので、観に行ってはまった感じです。テレビシリーズとは、また異なる感動があるっていうんですかね。

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――そうしたアニメーションに興味を持たれたことは、『ICO』にもつながっていくんですよね。

上田アニメ映画を通して動きに対して興味を持ったのは、間違いないです。当時はアニメ雑誌とかを見て自分なりに研究したりしていて。パラパラマンガとかは、中学生のころからかなり描いていましたね。

洞谷へぇ〜、そうだったんだ。僕は全然やってなかったなあ。

上田さっきの中2か中3でPC8001を買った話だけど、僕もちょうど中2の時代にMSX1を買っていて。でも、その理由はゲームではなくて、アニメーションを作りたいっていう……。3D空間を飛び回れるようなものを作れないかとずっと思っていて。土台無理なんですけど(笑)。

洞谷『スペースハリアー』とか(笑)。

上田そう(笑)。でもほんとに。ただ買ったはいいけど、速攻で挫折しましたね。BASICを覚えようとしたけれど、地元の数少ない書店に行ってBASICゲームの打ち込み手引書を見つけて、買って帰ってよく読むと、PC8001用だったりして機種によって違うんですよね……。一応がんばって、チュートリアルを見ながら打ち込んではみるんだけど、けっきょく動かない、みたいな。

――まだwebでの検索もままならない時代ですし、情報を得るのもたいへんでしたよね。

洞谷当時NECのパソコンショップには、展示機に近所の子どもたちが群がって、それぞれが勝手にプログラムを打ち込んだりして使っていた時代ですよ。それでコミュニティーができていたりしたけど、そういう環境がないと苦しかったと思う。

上田うん。それで自分はプログラムはあきらめて、絵を描く方向により興味を持つようになったんだと思います。

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ゲーム作りの世界へ

――上田さんも洞谷さんも、いまもジェン・デザインで中学生のころに興味を抱いたプログラムや絵を描くということを、ずっと続けているんですよね。それって、強烈なやめられない楽しさがあるから、なのでしょうか。

洞谷いやー、そんなにかっこいいもんじゃないですよ。単に、当時はふつうに働きたくなかったから(笑)。

一同 (笑)

洞谷最初に入社したアミューズメント系の開発会社がすぐに経営がきびしくなってしまった。でもバブル期だったので大手おもちゃメーカーに買収されて、僕は間もなくその親会社に出向になったんだけど、商社みたいな仕事の内容でなじめなかった。どうしてもゲームプログラムの仕事がしたかったので『ドラゴンクエスト』を作っているチュンソフトに転職しました。

――国民的RPG開発の渦中にいらしたんですね……!

洞谷『ドラゴンクエスト』に携わったのは『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』の途中からです。すでに国民的ゲームでしたので、そこにいた先輩方からはたくさんの勉強をさせてもらいましたね。その後、ハートビートに移って『ドラゴンクエストVI 幻の大地』と『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』のスーパーファミコン版を作りました。その後、SCE(ソニー・コンピュータエンタテインメント。現:SIE)へ転職しようとなったのですが、当時はハル研究所の社長だった岩田(聡氏:後の任天堂代表取締役社長)さんから連絡がありまして、『ポケモンスナップ』をマスターアップまで約1年間、手伝いをしました。

上田あれ、となると『ポケモンスナップ』が最初に関わった3Dのゲームに?

洞谷そう。でも『ポケモンスナップ』のときはスクリプターみたいな仕事だったので、そこまで深く関わってはいなかったかな。

――『ドラゴンクエスト』に『ポケットモンスター』と、国民的な作品に関わられてきたなんて。

洞谷いや、もう成り行きですよ。抜け道があってそこを通り続けてきたというか(笑)。『ドラゴンクエスト』シリーズと、本編ではありませんけど『ポケットモンスター』に携われたこと、システムからスクリプトのプログラムまで経験できたのは本当に幸運でした。その後も、プレイステーションでの最新の3Dゲーム表現に興味が出たときにSCEに入れてもらえたので、『ICO』と上田文人に出会えたわけですけど。

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――洞谷さんと出会う前、上田さんは3D表現を自分で模索されていたそうですね。

上田作家活動というか、当初は美術作家が第一志望だったので、少しでもアート表現の足しになればいいなと思って映像に強いAmigaというコンピューターを買ったりしていました。『ウゴウゴルーガ』というCGを使った番組があったんですけど、それで興味を持って。でもアート表現よりも、もともと好きだったアニメーションを作り始めてしまい、どんどん3DCGアニメーションのほうにはまっていってしまって。

――なるほど。

上田そんなことを24、5歳になってもし続けていたんですが、「そろそろ就職しないといけない」と本気で思うようになって、3DCGの知識とセガのゲームが好き、という志向が合致したゲーム業界で就職先を探し始めたんです。

洞谷CG作品はかなりたまっていたんですよね。

上田大学を卒業してからは、すぐ就職せずにフリーターとして、好きだったAmigaが使えるCG関連の部署があったパソコンショップで働くようになって。そこではそんなに仕事もなかったので、日がな一日、こっそり自分のCG作品を作っていたという……(笑)。そうこうして作品がある程度たまったタイミングで、ちょうど週刊ファミ通さんにWARPが求人記事を出していたのを見て、応募してみようかなと。

――まさかファミ通の記事がご縁になったとは……!

上田そうなんですよね(笑)。作りためた作品が飯野賢治さん(WARP代表取締役:代表作『Dの食卓』ほか)の目に留まってWARPに採用してもらったんです。それで関西から東京に出てきたんですよね。その入社が1995年だったので、洞谷に比べるとゲーム業界に入ったのは遅かったんです。なので、洞谷が大作に関わっていたころは、まだいちゲームプレイヤーとして遊んでいましたね。

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ふたりの出会いと、ICOの揺りかご

――その後、WARPからSCEに行かれて、ついに『ICO』の開発が始まるんですよね。

上田僕が入ったころのWARPでは、「つぎはサターンだ、プレイステーションだ」みたいな話をしていたのですが、WARPを辞めた理由はやはり「自分の作品が作りたい」というものでした。その作品というのが、まさに『ICO』の原型だったんです。

――ずっと作ってきたCG作品から、『ICO』の種子が。

上田ええ。『ICO』の原型だったその作品をちゃんと作り上げたくなったんですよね。ある程度WARPで働けて貯金ができたこともあって、「自主制作します」と伝えて退職したんです。でも、自主制作を始めたものの、すぐに貯金が尽きてしまい、また働かないといけなくなってしまって。とりあえず自分のWebサイトを立ち上げてCG作品を載せていた。そうしたら、当時SCEにいたCGデザイナーの方から「ちょっとアルバイトしませんか」と声をかけていただけて。アルバイトだったら自主制作の片手間にできそうじゃないですか。それで、「やります!」と面接に行きまして。

――アルバイトの面接から、SCEに入社することに?

上田面接に行ったところ「フルタイムで働かないか」と誘われたんです。でも、フルタイムは自主制作があるので無理ですと説明したところ、「じゃあ自主制作をうちでやれば」みたいな話をいただいて。

――そんなこと、なかなかない話ですよね。

上田確かに、いまだとありえない話ですよね……最初『ICO』は、初代プレイステーション用のソフトとして開発がスタートしたんです。最終的に開発には4年かかってプレイステーション2用ソフトになりました。

洞谷自分がSCEに入ったときに、社内で動いているいろいろなプロジェクト見せてもらったんですけど、『ICO』を見たときは震えました。AppleII版の『プリンス・オブ・ペルシャ』みたいな雰囲気のすごいゲームがあるなと思っていたら、しかも日本人が作っているってことに心底驚いて。それで、すぐ立候補して参加しましたね。タイミング的には『ICO』がプレイステーション2用ソフトに変更される数ヵ月前だったかな。

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初作品のディレクターとしての上田氏

上田いま振り返ると、それまでゲーム本編を丸ごと作る作業には触れたことがなかったので、「ゲームってどうやって作ったらいいのか」と、あれこれ試行錯誤しながら進めていたというのもあって、洞谷からは非効率的な作りかたをしてたように見えたんじゃないかなって思っているんですけど。

洞谷まあそうかもしれない。ただ、それを開発経験者として効率化しようとはあまり思ってはいなかったかな。やっぱり、あの非効率は必要なプロセスだったと。

上田でも『ICO』の開発では、必要になる要素をそのつど発注していって、それを積み上げていく作りかたをしていて。だから結果としてなかなか完成しないし、品質も安定しなかった。たとえばモーションのつなぎを自然にするためのアニメーション補完が必要だとして、それをプログラマーに「ここはこういう動きでつなげてください……ここは……」と個々にいちいちやりとりをしていました。でも、そのやりかただと高みは目指せない。イテレーション(ある結果を目指して反復する制作手法)の回数が少なくなってしまうので。

洞谷20年前なので、いまのハイクオリティーなグラフィカルツールがあるわけでもないし、「このやりかたで、ほんとにアクションゲームに組みあがるのかな」という不安は、確かにちょっとはありましたね。ただまあね、僕が驚いたのは、チームに入った瞬間から、すでにチーム上田ができ上がっているんですよ。まだ何ひとつ作品を出してないのに(笑)。

上田え、それは僕にはまったくわからないですけど、そうなの?(笑)

洞谷なんだろう。会社的にも、完全に古参のディレクター扱いされている雰囲気があった(笑)。20年前の開発現場って役割分担なんてめちゃくちゃで、誰がディレクターかわからないのがふつうだったから。『ICO』チームに入ったときは、初作品なのにってびっくりしたわけ。

上田なんでだろう。知り合いが集まっていたからかなあ(笑)。

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動きと映像の力で4年間生き延びた

上田いまになるとわかるんですけど、ディレクターというのは、どこかである程度ゴリ押ししてスタッフをコントロールするっていう部分も必要な職種だと思うんです。それを当時の自分は、きっとわからないなりにイメージボードからエフェクトから、背景、モーションまでビジュアル面のほとんどを率先して作成し、イメージを共有することで行っていたんでしょうね。

――『ICO』のビジュアルには、印象深いものを感じさせられますから。

上田いやあ、そんなことなかったんですよ。当時のSCE社内では、絵と動きは評価されていたものの、ほかのチームや上司からは、「どんなゲームかわからない」という評価を受け続けていた記憶ばかりです。

洞谷わりと自由にさせてもらっていましたが、そのじつ、放任主義的だったのかも、と思ったりはしていました(笑)。ただ、プロジェクト自体は続けさせてくれたのはすごい。

上田ゲーム開発経験が少ないチームが、なぜここまで長い期間開発を継続できたかといえば、もちろんマネジメントの理解やバックアップもあったと思いますが、やはり要所でビジュアル面でのプレゼンテーションができていたからかなとは思います。

――ビジュアルのプレゼンテーションですか。

上田たとえばゲームの画面を撮影して、うまく編集して仮の楽曲をあててPV的に見せたりとか。自分たちが、ほかのゲームよりも突出してよくできていたと思えるところをアピールして、なんとか制作を続けられたというか……。

洞谷単なるゲーム企画としてプレゼンテーションしていたとしたら、いつキャンセルされてもおかしくない期間ですから。4年は。

【ICO 20周年】ジェン・デザイン 上田文人氏×洞谷仁治氏 対談『ICO』と20年
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これまでにないもののために、そぎ落とす

上田20年前って、ゲームジャンルを決めてから開発が始まることがほとんどだったと思うのですが、『ICO』の場合は、既存のジャンルに属さないものを目指していました。たとえば、『ICO』がアクションゲームだとするなら、城にコインを置いたりして、プレイヤーを誘導して迷わせないようにするとか、アドベンチャーゲームだったらチュートリアルの看板を立てたり、ヒロインと主人公の少年が仲よくなる恋愛ゲームだとすれば、手をつないだらパラメーターが上がってハートが出て……みたいな方向に舵を切っていたらどんなゲームか伝わりやすかったと思うんですが、自分としては既存のジャンルにとらわれない作品として作りたかったし、伝えたかった。

――そのどこにもないものを作ろうと思ったきっかけは、何だったのでしょうか。

上田理由としては、たぶんふたつあって。ひとつは、当時のビデオゲーム全般に飽きていたのかもしれないです。たとえば、街に入ると村人がたくさんいて、全員に話しかけるだとか……そういうのも最近だといいなと思えるんですが、少なくとも20年前はそうは思ってはいなかった。もうひとつは、やっぱり自分たちにあまりゲーム開発経験がなかったからだと思います。背水の陣じゃないですけど、ふつうのやりかたをなぞっても、ほかのタイトルには太刀打ちが出来ない。だから、ほかにないものを選択せざるを得なかったんだと思いますね。

洞谷『ICO』も、続く『ワンダと巨像』や『人喰いの大鷲トリコ』もそうなんですが、そぎ落としてシンプルにしていくという感覚は、なかなかよその開発の人には伝わらないんですよ。まあ、もの作っていくうえでは、最後は削っていく作業が必ず出てくるとは思いますが。

――では、『ICO』は最初からあえて削っていく作業を選択していたのでしょうか。

上田改めて考えてみると、どっちなんだろう。

洞谷やー、最初からじゃないかなあ。

上田たしかに、初代プレイステーションで開発していたころは、けっこう大風呂敷を広げていて、ふたりでお城から脱出して村に行って……という構想だったんですよね。プレイステーション2用に作り直していく中で、お城だけのボリュームで大丈夫そうだというのが見えてきて、むしろコンパクトな世界を作り込む方向で行こうとしたね。

【ICO 20周年】ジェン・デザイン 上田文人氏×洞谷仁治氏 対談『ICO』と20年

生きたアニメーションのために

洞谷開発では、何度もやり直ししたしね。あと、キャラクターで言えば、AIの仕組みを作るのはどちらかというと簡単だったんですけど、ヨルダを自然に歩かせたり動かしたりするための、スタッフの繊細な制御作業がとにかく苦労したと思う。

上田ヨルダの動きが『ICO』自体の肝なので、その動きが破綻したり、少しでも不自然に見えてしまうような場所は、徹底的に排除しないと、『ICO』の企画は成り立たなかったんです。

――それはゲームを遊ぶとわかります。ヨルダは生きているかのように感じてきます。

上田それを実現するためには、ヨルダのAIをプログラム的に賢くするのではなくて、もっと泥臭い作業が必要だったというか。たとえば、移動するルートのポイントとなる点と線=パスを城の道にうまく調整しながら設置していくだとか、モーションのつなぎの部分の荒い部分をなめらかに動くように調整していくといった、地道な作業をひたすらに積み上げて、積み重ねていった形です。

【ICO 20周年】ジェン・デザイン 上田文人氏×洞谷仁治氏 対談『ICO』と20年
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――ヨルダの動きのための仕組みやモーションをひたすらに。

上田例として、橋のかかった崖があったとして、向こう側に渡るためには橋を通るしかないですよね。橋にちゃんとパスを引いてあげないと、ヨルダは向こう側へ直線的に行こうとして、崖に向かって歩き続けてしまうんです。直線的な動きはロボットや昆虫のように見える。

洞谷橋の曲がり角の少し前から緩やかに角度が変わりつつ、かといってインコースをつきすぎて角にひっかからないようなルートで通れるように、あらかじめパスを作っておくわけですけど、これが地道な仕事で。

上田すべては、少しでも実在の人間のように感じさせるための調整で。一般的なゲーム制作では、プレイヤーにいかに武器を使わせてバリエーションを出すだとか、戦闘の絶妙なバランスなどに調整のコストを割くものかもしれませんけど、『ICO』ではそういうことよりは、「ゲーム内のキャラクターの実在感をいかに出せるか」というところを最重要視していました。だから、効率とは無縁というか、あまり合理的ではないんです。

洞谷当時のゲームとしては、なんでこういう調整にこんなにコストを割くのかも、なかなか理解されなかったですね。

――まさにそのために心血を注いだ作品だったんですね。

上田いま思えば、やはり初めて作ったものだったので、あまりゲームだという意識では作っていなかったかもしれないです。得点が入って、誰かと競って、とかではなく、キャラクターとしての魅力やその世界の実在感が『ICO』のポイントだったんですね。なので、そこを研ぎ澄ますための時間を作るために、ほかの作業はできるだけ減らさなくてはいけなかったというか……。

――その決断も、なかなかできないですよ。

上田でもだからこそ、当時発売するときはドキドキでしたよ。こんなに何もないゲームでいいのだろうかと。

【ICO 20周年】ジェン・デザイン 上田文人氏×洞谷仁治氏 対談『ICO』と20年
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海の向こうから届いた絶賛

上田成長要素もアイテム集めもない、いろんな種類の敵と戦うゲームでもない。でも開発スタッフや会社の上司など関係者の中で、なぜか洞谷だけは「このゲームはいける」ってずっと言っていて(笑)。

洞谷はははは(笑)。でもリリース直後はすごく静かだったものの、2〜3ヵ月後くらいに、海外からゲームアワードにノミネートされたよっていう情報がまばらに入りだしたんですよね。

上田D.I.C.E Awardsだとか、いろいろとすごい賞のノミネートが伝えられたかと思っていたら、けっきょく当時の最多ノミネート数になり。「E3に出展した際にディズニー・インタラクティブの偉い人が『ICO』のことをほめていたよ」とか、そういう話もちょこちょこ聞こえてくるようになって。海の向こうで、ちゃんと評価されたんだなって。

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完成

――20年前はSNSもありませんでしたから、プレイヤーの声も直接目にすることはなかったかもしれませんが、苦心して研ぎ澄ませた表現は、突き刺さっていたんですね。

上田いま振り返っても『ICO』を作ること自体が目標で、ゴールでもあったんだと思います。だから、もうそれで満足できていたんですよね。あとは本当に自分と同じ感覚でビデオゲームの魅力を感じている人だとか、自分も大好きなゲーム作品を同じように理解しているような人たちが『ICO』を評価してくれるといいな……というふうに思っていて。結果的にはそこに到達できて、望んだ評価ももらえたので、SCEのくれた縁にすごく感謝しています。

洞谷僕にとっても、それまでは大作とはいえ、人気シリーズIPの続編ものばかりに関わってきたので、本当に初めてのオリジナル作品として世に出せたのは『ICO』が最初なんです。なので、20年前当時、「いいものできたな」って感覚だけがありましたね。だって、その後のリマスター版を作る際にも、モーションデータは当時のものをベースに使っているくらいですから(笑)。

【ICO 20周年】ジェン・デザイン 上田文人氏×洞谷仁治氏 対談『ICO』と20年
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ICOからジェン・デザインへ

――上田さんの作品は、『ICO』以降もそうですが、生きている感じがします。ジェン・デザインからこれから作品がリリースされていくと思うのですが、『ICO』からずっと変わらない部分はありますか?

洞谷うーん、どうだろう。ありますか?

上田そうだなあ……むしろ、「それしかない」という気がするかな。アニメーションに出会って、自分が高水準の表現でお客さんに提供できるのは、“動き”で表現できることにまだまだ可能性を感じているからなんだと思います。小さいころからアニメ映画が好きだったのもありますし……アニメという言葉は、命を吹きこむということが語源ですよね。アニメーターは少しずつ違った絵を描いて、それを連続して見せることで、さも命が吹き込まれているかのように感じさせる技術を担う職業です。そのアニメーターの技で命を吹き込む作業を、現代の技術であれば、プログラミングと組み合わせることで、テレビや映画、手描きのアニメーションや、CGアニメーションよりも、もしかしたら命を宿すアニメートとしてできることがあるのではないかとは、思います。

洞谷そういえば、“手を引くゲーム”という部分については、命を感じてもらえるだろうと苦労して作り上げた要素だったし、『ICO』以降はわりとどこでも見かけるようになるのかな、なんて思っていました。でも意外とありませんでしたね。『ワンダと巨像』以降には、巨大な敵と戦うゲームはかなり見かけるようになったんですけど。でも、要素ではなくゲーム全体に対して、“『ICO』っぽい”などと代名詞のような使われかたを見かけるようになったのは、そういうAIとアニメーションの表現や実在感がほかにないものだったからかなと、いまになって思います。

【ICO 20周年】ジェン・デザイン 上田文人氏×洞谷仁治氏 対談『ICO』と20年

――いちプレイヤーとしては、遊んでいる最中にはヨルダのことを気にして、変なふうに手をつないだら痛くするかもしれないから、一回離してつなぎなおそうとか、向きを気にしたりと、そんなことまで考えて遊びましたが、そういうプレイヤーも多いと思います。

上田ああ……それがゲーム的に「好感度が下がる」だとか、ゲーム進行に支障があるからという理由でパラメータ数値に気遣うのではなくて、純粋に「ひとりのキャラクターに対して向けられたやさしさ」だったら……そんなふうに遊んでもらえたんだとしたら、それはすごくうれしいですね。

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洞谷ありがたいですよね……もとはもう20年前のゲームですけど、普遍的なものがある、ということなんでしょうね。20年も経ったけれど、古くないと思ってもらえるのは、当時から時代を超えた価値を持ったゲームだった、ってことかもしれないですね。ただ、まあこの前部屋の片づけをしたときにPS2が出てきたので、せっかくだしと『ICO』を遊んでみたんですが……。

上田え、どうでした?

洞谷いま遊ぶと、「やっぱりこここうしたほうがよかったな〜」とか思っちゃって集中できなくて。「風の音が強すぎたかな」とか。

――細かくて作り手しかわからないレベルですね(笑)。

上田作り手側ってそういうものなんです。『ICO』に限らずですが、プレイヤーのほうが思い入れが強い場合は、作った自分たちの手から離れて成長していって遠い存在に感じるときもあります。海外から評価されたり、ファンの方たちからの言葉を聞くと(あの『ICO』が)遠くに行ってしまったなぁと(笑)。

一同 (笑)

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――上田さんの作品は、きっとファンならどの作品も大好きだと思うのですが、最初の作品である『ICO』は、その後の作品にどんなふうに影響していった感じなのでしょうか。

上田トリコ』はかなり直接的で、『ICO』でできなかったことが盛り込めるんじゃないかという発想がありましたね。技術的に動くAIキャラクターと冒険をするゲームの中で、ヨルダの場合は非力でなおかつ人型だったので、作れるパズルも限界がありました。それがトリコ……巨大な生物になることで、運動能力の高さや空間を駆使して、新しいパズルができるようになるなと。その一方で、『ワンダ』では……どちらかというと『ICO』が静的なゲームかつ、そもそもゲームじゃないものを目指したことと正反対な、自分なりのゲームらしい作品への挑戦という気持ちがあって。遊び自体も、ゲームぽいレスポンスに寄せてみたりと、『ICO』があるから『ワンダ』がある、といった感覚は自分の中にあります。

洞谷カットシーンとかも、『ICO』からずっと、リアルタイムで演出しようと苦心してきたしね……できるだけプレイ中の映像と違和感ないようにしたいって。

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そこにいるからこそ、心を震わされる

――カットシーンといえば、『ワンダと巨像』、『人喰いの大鷲トリコ』でも、橋が崩れていく印象深いシーンでは、とても心が揺さぶられました。

洞谷ちなみに、『ワンダ』のラストの橋の場面では、技術的にも後戻りできない仕様なんです。なにしろ、あの場面で、ほかのマップのすべてのデータを捨ててしまっているので(笑)。

上田ああいった場面で、よく言われるんですが、「別れが辛すぎてリセットをかけた」という感想なんですよね。別の選択肢があるのかもしれないと思って、リセットかけた方もいたという。

――ああ……わかります。

上田シナリオ的には、長く旅をしたキャラクターどうしが別れるという展開は、なんら新しいものではなくて、巷に溢れているものですよね。

――たしかにそうですね。

上田でも、そこでプレイヤーがリセットしてしまうような行動をとるというのは、そこにキャラクターの実在感を感じたからだと思うんです。たとえば、自分の近しい人が急にどこかに引っ越したり、いなくなったりするとショックですよね。逆に見知らぬ人が引っ越ししようが、いなくなろうがそこまでショックではない。なので、いかにそのキャラクターが本当に存在して、自分と近しい存在かどうか。それをちゃんと積み上げることができれば、ありふれた表現だったとしても、心が動かされるものがあるんじゃないのかって。

洞谷そのために、細かい積み重ねを地道にしてきたけど、それが重要なんだろうなあ。

上田無駄じゃなかったなとは思う。それが自分たちの強みでもあるし、ゲームでしか表現できないこと……それこそがほかの表現メディアとは違う魅力なんじゃないかって。

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ゲームにしか描けないものを

――20年前に『ICO』が発売されて、いまはおふたりはジェン・デザインを設立されてゲーム作りをしていますよね。

上田『ICO』は作りたいものを完成させるべく走り切りましたけど、いまはそれ相応の責任を感じながらゲームを作っているところは、たぶん『ICO』のころとは大きく違っていますね。自分たちに向いていて得意なものと、お客さんが喜んでくれるものとのバランスを考えながら、いまは新作を作っていますけど、商業である以上、その競争にさらされないといけません。でもかといって、単にものすごい数売れればいいゲームなのかっていうと、やっぱりいまもそんなふうには考えられないですからね。もちろん、クオリティーが自分が想像していたものより、いいものが上がる瞬間が要所要所であるので、そういうときは本当に楽しい。でも、基本的には生みの苦しみのほうが強いかなあ。作っているときは、楽しいというか「おもしろい」のかもしれないなって……。

洞谷ああ、楽しいよりも、「おもしろいから」っていうのは確かに。

上田たぶん自分がゲームを作らなくなったら、とても楽になるんだろうけれど、きっとつまらないと思うだろうなっていうのは容易に想像がつくので。20年前から、作っているときに「おもしろい」と思えたからこそ、『ICO』からここまで続けているのかもしれないですね。

【ICO 20周年】ジェン・デザイン 上田文人氏×洞谷仁治氏 対談『ICO』と20年
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