サイゲームスより配信中のiOS、Android、PC(DMM GAMES)対応ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』で、2022年7月11日に新たな育成ウマ娘“星3[unsigned]エアシャカール”が実装された。その能力や、ゲームの元ネタとなった競走馬としてのエピソードを紹介する。
『ウマ娘』のエアシャカール
公式プロフィール
- 声:津田美波
- 誕生日:2月26日
- 身長:168センチ
- 体重:計測不可能
- スリーサイズ:B77、W56、85
アナーキーなデータ至上主義者。頭も性格もキレキレで、アバウトな勝利ではなく、ロジックによる絶対的な勝利を追い求める。何度計算しても、三冠獲得には7cm足りないと出ており、自分の計算に対する自身と絶望を抱えながら、一縷の可能性を探し続ける。
見た目も中身もエキセントリックなウマ娘。気難しく怒りっぽい性格をしており、口調もぶっきらぼうでガラが悪い。じつは知的な論理派で合理的でもあり、納得できないことはしないためトレーナーに対しても反抗的になりがち。
音楽、とくにヒップホップを好んでおり、データ分析の合間に愛用のノートパソコンで作曲をしていることも。ゲーム内イベント“今宵、リーニュ・ドロワットで”では、“!monad”名義でDJパフォーマンスを見せている。競走馬のエアシャカールの馬名は、アメリカのラッパー“2Pac”の本名である“シャカール(またはシャクール)”から取られていると言われており、ヒップホップ好きはこのネタにちなんでいると思われる(※)。
※ちなみに、エア軍団でラッパーの名前や愛称が由来になっている活躍馬には、ほかにエアエミネムやエアシェイディなどがいる。
シャカールは栗東寮所属で、同室はメイショウドトウ。史実ではドトウが1歳上だが、『ウマ娘』ではシャカールが高等部、ドトウが中等部とシャカールのほうが年上になっている。シャカールは一見、キレ者の不良(のような言動)、対してドトウはネガティブなドジっ子で、水と油のような組み合わせに思えるが関係は悪くなく、作中でもシャカールがドトウに忘れ物を教えてあげたりする場面が見られる。
タイプは違うが同じ知性派のアグネスタキオンとの絡みも。競走馬のタキオンにはアグネスフライトという兄がおり、フライトとシャカールは日本ダービーで激突。7センチ差の勝負を制してフライトがダービー馬となった、というエピソードがある。なお、このダービーの“7センチ”は有名で、シャカールのサポートカードの名前にも採用されている。
そして、シャカールと現在のところもっとも絡みが多いのはファインモーションで、いっしょにラーメンを食べに行ったりするなど仲は良好の様子。ファインモーションの育成シナリオでは、“運命”に対するふたりの向き合いかたが描かれたりしている。史実ではシャカールが2歳上で、シャカールの引退レースとなった有馬記念で対戦がある。
そのほか、作中ではアグネスデジタル(史実で同い年)やエアグルーヴ(同じエア軍団)とも仲がいいようだが、エアグルーヴを除きほとんどのウマ娘との関係においてシャカールはツッコミ役となっている。プロフィールに“エキセントリック”と書かれていながらも、そんなキャラクターがツッコミをせざるを得ないほど変わり者揃いのトレセン学園、恐るべし。
勝負服は、ノースリーブのシャツにショートパンツ、スニーカーとムダを省いた超合理的(?)スタイル。セーラー服のような襟とスカーフ、スタッズが満載のアクセサリーなどが特徴で、シャツのカラーリングは史実の勝負服(黄地、青一本輪、青袖)に合わせたものだろうか。また、背中側に見えるベルトは手綱がモチーフのようにも見える。
競走馬のエアシャカール
エアシャカールの生い立ち
1997年2月26日、北海道千歳市の社台ファームで生まれる。父はサンデーサイレンス、母はアイドリームドアドリーム。近親からは重賞馬が多数輩出されており、秋華賞馬エアメサイア、重賞3勝のエアスピネル、重賞2勝のエアソミュールなどがいる。何とも華やかな一族である。
主戦として20戦中12戦で手綱を執った武豊騎手は、シャカールにデビュー前から調教をつけており「スペシャルウィークをこぢんまりさせた感じ」と評していた。デビュー時の馬体重はスペシャルウィーク464キロに対し、シャカール498キロとむしろシャカールのほうが大きかったので、素質を比較してのコメントだったのだろう。武騎手にとってスペシャルウィークは特別な1頭であり、それと比較することはつまり、シャカールにもかなりの素質を感じていたのだと思われる。
素質に対する評価は武騎手だけでなく関係者間でも高かったが、同時に激しすぎる気性が懸念されてもいた。スイープトウショウのように機嫌を損ねるとその場から動かなくしまうほどではなかったが、威嚇する、暴れる、言うことを聞かない……といった“気性難”の悪いところはすべて持ち合わせていたようだ。
そして最大のクセが“斜行癖”であった。気性が原因で真っ直ぐ走らないことを競馬用語で“モタれる”といい、そのうち内側にモタれることは“ささる”、外側にモタれることは“ふくれる”と呼ばれる。ちなみに、疲労が原因でフラつくのは“よれる”とされている。この4つの用語を覚えておくと、競馬関連の記事を読んだとき状況がわかりやすくなるだろう。
当時のシャカールの記事を振り返ると、“ささる”、“もたれる”のオンパレードである。勝っても負けても、変わらず斜行し続けていたのだ。そんな困り者だったにも関わらず、あと7センチで三冠馬というほどの実績を挙げていたのだから、とんでもない才能だったのだと言える。
エアシャカールの血統
シャカールの父サンデーサイレンスは言わずと知れた不世出の大種牡馬。産駒による日本での通算勝利数は3721勝、通算獲得賞金額は約800億円。平成以降の日本競馬は彼の存在なくして語れないほどである。
母はアイドリームドアドリーム。サンデーサイレンス同様アメリカ生まれで現役時代はとくに実績は残せなかったが、引退後に繁殖牝馬として日本に輸入された。代表産駒はエアシャカールのほか、GIIIクイーンステークスを勝ち、クラシックでは桜花賞3着、オークス2着、秋華賞3着と善戦し続けたエアデジャヴー(父ノーザンテースト)などがいる。
サンデーサイレンスの産駒は、その影響かだいたい気性が悪い。こう書くとよくないことのように感じさせるが、気性が悪いほうがいい結果を残していたとも言われているので、善し悪しなのだろう。とはいえ、シャカールはとくに気性が悪かった。父が違う半姉エアデジャヴーにはそのような話は聞かれなかったので、やはり父の影響だと思われる。
また、母の血統はスタミナ&パワー血統で知られるボールドルーラー系(母父)×エルバジェ系(母母父)×リボー系(母母母父)で構成されており、そこにサンデーサイレンスのスピードとパワー、勝負根性(そして気性難も)が加わり、超素質馬エアシャカールが生まれたのだと言える。
エアシャカールの現役時代
1999年、2歳になったシャカールは栗東の森秀行厩舎に所属する。森厩舎には前年の1998年に日本調教馬では初の海外GI(仏モーリス・ド・ギース賞)制覇を成し遂げたシーキングザパールも所属。さらに、シャカールのデビュー戦の直前にもアグネスワールド(ヒシアケボノの半弟)が仏GIアベイ・ドゥ・ロンシャン賞を勝つなど、もっとも勢いのある厩舎のひとつとなっていた。
1993年に戸山為夫師(ミホノブルボンなどを管理)から管理馬を引き継ぐ形で厩舎を開業させて以来、目覚ましい活躍を続けてきた森師だったが、じつはクラシック競走は未勝利だった。シャカールは、そんな厩舎の悲願も背負ってデビュー戦を向かえることとなる。
※記事中では、年齢は現在の基準に合わせたもの、レース名は当時の名前をそれぞれ表記しています。
2歳(ジュニア級:1999年)
デビュー戦は1999年10月31日、東京競馬場の芝2000メートル新馬戦に決まる。鞍上は武豊騎手。期待は大きかったものの、最後方から最後伸びきれず、単勝2番人気で5着と案外な結果に終わってしまう。
それでも、中2週空けて臨んだ2戦目の未勝利戦(京都芝1600メートル)で初勝利を挙げ、まずはひと安心。しかし3戦目の3歳500万下はミルコ・デムーロ騎手を背に2着に敗れてしまう。
年末はホープフルステークス(現在の同名競走とは別のレースで、当時はオープン特別)に出走。森厩舎の特徴として、勝てそうなレースがあれば関東などへの遠征も積極的にこなすという方針があり、このときもそれが見事にハマって何とか1着を勝ち取った。
3歳(クラシック級:2000年)
年明けはクラシックの出走権を獲るために3月の弥生賞から始動。しんがりから進んで最後の直線に懸ける追込作戦で勝利を目指したが、素質馬フサイチゼノンには届かず2着まで。それでも皐月賞の優先出走権は獲得できた。
これまでの5戦、内容も時計もあまりよくなかったが、クラシックすべて3着以内と好走した女傑エアデジャヴーの弟という血統、鞍上の“天才・武豊”の後押しもあってか、皐月賞では単勝2番人気に支持される。弥生賞で苦杯をなめさせられたフサイチゼノンはケガで戦線離脱しており、目下のライバルは5戦4勝、スプリングステークスを勝った1番人気ダイタクリーヴァ(ダイタクヘリオスの甥でもある。ただし逃げ馬ではない。父はフジキセキ)。しかし彼は血統的にもマイラーであり、実際は“本命不在”の大混戦だった。
シャカールは弥生賞同様、後方から進んで直線勝負の作戦に出る。気性の問題もあり、ゴチャついた馬群に入れるとヒートアップする恐れがあったのだ。そして最終コーナーに入ると大外からものすごい勢いで進出し、そのまま直線へ。すると一気に先頭へと突き抜けていくのだが、そのコースがとんでもなかった。ほかの馬たちが真っ直ぐゴールへ向かって突き進む中、シャカールは大外から最内までナナメにナナメに、文字通り“斜行”しながら突っ込んできたのである。
インコースでロスなく走りきったダイタクリーヴァと比べて、間違いなく数十メートルは多く走ったであろうシャカールだが、それでもクビ差離して勝利を収めた。
シャカールは、全力を出そうとすると右へ右へとヨレていってしまうのがクセになっていたが、武騎手はそれを何とか制御してゴールへと導いた。豪快なまくり勝ちに見えて、じつは武騎手の繊細な手綱さばきが発揮されたレースだったのである。なお、このレースでは3番人気ラガーレグルスがスタート直前にゲート内で暴れて佐藤哲三騎手を振り落とし、発走せずに競走中止となるアクシデントがあった。
厩舎に初のクラシック勝利をもたらしたシャカールの次戦は、当然ダービー。皐月賞の強い勝ちかたから、今度は少し抜けた1番人気に支持された。しかし、ここで新たなライバルが登場する。デビューが遅れ、この年の2月にようやく新馬戦に出走、5月頭の京都新聞杯に勝ってギリギリで賞金額による出走が決まったアグネスフライトである。そしてその鞍上には、武騎手の兄弟子であり、数々の大レースを制してきた百戦錬磨の河内洋騎手の姿があった。
ここでアグネスフライトについて少し語ろう。1997年3月2日生まれの牡馬で、父はサンデーサイレンス、母はアグネスフローラ。1歳下のアグネスタキオンと父母が同じ全兄弟である。また、祖母アグネスレディーはオークスを、母アグネスフローラは桜花賞を勝っており、アグネスフライトにはクラシック3代制覇の期待が掛けられていた。
そしてその3代すべての手綱を執っていたのが河内騎手である。1974年に19歳でデビューすると、瞬く間に頭角を現していく。1979年にはアグネスフローラでオークスを制し、初の八大競走(※)制覇を達成すると、その勢いで翌1980年には全国リーディングジョッキーを獲得。後輩の田原成貴騎手とともに1980年代の競馬界を引っ張る存在となった。メジロラモーヌ(牝馬三冠)やニシノフラワーも河内騎手のお手馬である。
※グレード制の導入前にもっとも格が高いとされた8つのレースのこと。
しかし、騎手として数々の栄光を勝ち取ってきた河内騎手も、ダービーだけはなかなか手が届かなかった。前年まで16回騎乗していたが、未勝利である。そんな中、“大器”アグネスフライトに巡り合い、胸に期するものがあっただろう。
ダービーのレースが始まると、シャカールはいつものように馬群から距離を置いて後方からゆったりと進んでいく。タイムは平均よりやや速め。追込馬にはいいペースだ。そして最終コーナー、シャカールは皐月賞と同じように大外から一気にペースを上げてまくっていく。そして、その右後方にはまるで影のように寄り添うアグネスフライトの姿があった。
最後の直線、長い坂を上りきって、シャカールが一気に先頭へと突き抜ける。しかし唯一、フライトだけは右後方に張り付いたまま離れてくれない。すると、なんと残りわずかなところでシャカールは急に左(内側)へ斜行してしまう。瞬時に反応した武騎手が何とか立て直そうとするが、今度はアグネスフライトのいる右(外側)に走り出したのである。
河内騎手もさぞかし驚いたことだろう。しかし、ふたりの名手はそんなアクシデントなど微塵も感じさせずにデッドヒートを演出し、ゴールへとなだれ込む。そして前にいたのは、フライトだった。
その差はわずか7センチ。45歳の河内騎手はダービー挑戦17回目にして初勝利を挙げた。一方のシャカールは三冠の夢を絶たれ、武騎手のダービー3連覇も成らなかった。
ダービーの後、通常なら菊花賞に備えて放牧されるところだが、シャカールはイギリスに渡ってヨーロッパ最高峰のレースのひとつ“キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス”へ出走する。凱旋門賞と同様、3歳は軽い斤量で出走できるため、チャンスがあると見たのだろうか。しかし残念ながら、前年の凱旋門賞でエルコンドルパサーに競り勝ち、その後も中距離戦線で活躍を続けていたヨーロッパ最強馬モンジューらの前に5着に敗れてしまう。最後の直線は右へ左へモタれ続け、自慢の豪脚を披露することはできなかった。
帰国後は神戸新聞杯から始動したが、モタれ癖はさらに悪化していた。最後の直線であっちへフラフラ、こっちへフラフラ……。3着に入ったのが不思議なくらいの走りだった。武騎手もすっかりお手上げ状態で、レース後は「どうしてまっすぐ走ってくれないのか……エアシャカールのアタマの中を見てみたい」とコメントするほどだった。
しかし、陣営もただ手をこまねいていたわけではない。調教でハミをリング状のものに変えたり、ブリンカーを着けるなどさまざまな対策をしていた。
そして迎えた菊花賞。1番人気をフライトに譲り渡したシャカールは意外な策に打って出る。いつもの後方待機ではなく、中団でインコースにつけたのである。それに対して、アグネスフライトはダービー同様、いつものシャカールと同じ後方待機→大外まくりの作戦を選択。長い道中を経て最終コーナーに入ると、アグネスフライトは作戦通り大外から進出してくる。一方のシャカールは、馬群に包まれて身動きが取れないでいた。
勝負あったか。皆がそう思いかけた瞬間、シャカールの豪脚が炸裂する。距離の壁か、フライトが伸び悩むのを横目に、馬場の中央あたりからシャカールが飛び出してきたのだ。内にささる悪癖も顔を覗かせていたが、最初からインコースに位置取りをしていたので、すぐに内ラチに到達して進路が真っ直ぐに修正され、ロスは最小限に。最後はトーホウシデンとの叩き合いになり、図ったようにクビ差しのぎ切って皐月賞に次ぐ二冠目を獲得したのだった。
「真っ直ぐ走れば強い」
このころになると、競馬ファンもようやくエアシャカールのことがわかってきた。しかし、次戦のジャパンカップでは海外遠征も含めぶっ通しで戦ってきた疲れが出たのか、競馬に参加できずに14着と大敗。さすがに立て直しには時間がかかると放牧に出され、3歳シーズンはここで終了となった。
4歳(シニア級:2001年)
放牧明け初戦は、4月の大阪杯(当時はGII)。この年から武騎手はフランスに長期遠征をしていたため、鞍上も蛯名正義騎手に乗り替わっている。そして1番人気は前年(2000年)に8戦全勝、GI5連勝を飾った“世紀末覇王”テイエムオペラオー。
ジャパンカップで大敗を喫しただけに雪辱を果たしたいシャカールだったが、悪癖はまったく直っていなかった。最後の直線、オペラオーらをかわして先頭に躍り出ると、そこから右側(内側)に刺さっていく。その様子に場内からは悲鳴が上がった。蛯名騎手が何とか立て直そうとするも、その隙に伏兵トーホウドリームに抜かされてまさかの2着という結果に……。
せっかくオペラオーに勝ったのに1着を取れなかったシャカールは、気を取り直して天皇賞(春)へと向かう。しかしこの年の天皇賞(春)は降雨で馬場がヌメっていて(発表は良馬場)、追込馬のシャカールにとっては力の出せない状況。8着と惨敗してしまう。
続く宝塚記念では直線で詰まってしまい、全力を出すこともなく終了。全力を出さなければ悪癖も出ないのだが、それで勝てるほどGIレースは甘くなかった。とは言え5着と掲示板は確保。
悪い流れは秋になっても断ち切れず、熱発から体調を崩すなどしてレースに出せる状態に持っていけず、けっきょく放牧に出されたった3戦で4歳シーズンは終了となる。
5歳(シニア級:2002年)
前年に続き、大阪杯から始動することになったシャカール。前年の不振からファンは彼の実力に対して半信半疑になっており、このレース唯一のGI馬であるにも関わらず3番人気の評価となった。しかしこのレースでは珍しく落ち着いて走ることができ、名手ミルコ・デムーロ騎手の先行策もハマって遮光癖を出さないまま2着に入る。放牧明けでプラス16キロと良化途上だったこともあり、ファンにいい印象を与えた。
続く金鯱賞ではひさびさに武騎手とコンビを組み、斤量が2キロ軽いツルマルボーイの強襲に屈したものの2着は確保して「これは5歳にして復活したか!?」と、またしてもファンに期待を抱かせることになった。
宝塚記念では、アメリカの名手ケント・デザーモ騎手を背に、再び先行策で好位につける。最後の直線に入り、大外に持ち出して馬群から抜けて2番手から一気に先頭をうかがうポジションに。あとは突き抜けるだけ!
と、多くのファンがゴールの瞬間まで思いを馳せたであろうその瞬間、シャカールは豪快に内にモタれるのだった。外に持ち出したはずなのに、いつの間にか内にいる。どういうことなのか……。
レースはダンツフレームが涙の初GI制覇を飾り、シャカールは4位が精いっぱい。菊花賞以来の勝利は、またもお預けとなったのだった。
そして秋シーズンでも悪癖は直らず、天皇賞(秋)4着、ジャパンカップ12着、有馬記念9着と、潜在能力を発揮することなく負け続け、この年限りで引退することとなった。
シャカールのレースは、その多くが鞍上の技術や戦術が光るすばらしい内容となっている。しかし、毎回のようにゴール直前の数百メートルで出る悪癖によって計算が狂い、勝利が手からこぼれ落ちてしまっていた。競馬とは、なんとままならないものなのか……と、シャカールはファンに教えてくれていたのかもしれない。そう思いたい。
通算20戦4勝、重賞2勝(GI2勝)、獲得賞金約5億4千万円。じつは2着が6回もあり、連対率は50%にもなる。脆さが目立っていたが、まっすぐ走れたときの強さは強烈だった。シャカールは近代競馬有数の個性派として、これからも記憶に残っていくだろう。
エアシャカールの引退後
引退後はブリーダーズ・スタリオン・ステーションで種牡馬入りを果たす。しかし、初年度の2003年3月、放牧中の事故で重度の骨折をしてしまい、そのまま安楽死となった。残された産駒はわずか4頭(すべて牝馬)で、そのうち2頭が繁殖入り。何とかエアシャカールの血を後世に伝えている。