稀代のゲームクリエイター、飯野賢治氏が2013年にこの世を去ってから10年が経った。
『Dの食卓』や『エネミー・ゼロ』の大ヒットでメディアの取材も増え、そこで飯野氏は、制作でのこだわりや独自の考えかたをつねにメディアで語ってきたわけだが、それは飯野氏の一面に過ぎない。
彼はクリエイターであると同時に、夫であり父でもある。当然プライベートもあるわけだが、その部分は当時からのファンであっても知らない方が多いのではないだろうか。
そこで今回は、飯野氏の妻として17年間をともに過ごし、ずっと彼を見続けてきた飯野由香さんに当時の話を聞いてみた。
由香さんは『ファミ通ドリームキャスト』(『ファミ通DC』)などのゲーム雑誌でコラム“ゲームクリエイターの妻”を長年連載していたという経歴を持つ。
それは赤裸々な日記のようでありながら、個性派ゲームクリエイターの妻という立場での記録でもあり、また、飯野賢治氏の素の姿も垣間見ることができる、アルバムのようでもある。
連載の執筆時を思い出し、また往時の飯野賢治氏を思い出しながら語る由香さんは、ちゃきちゃきの大阪っ子で関西弁が小気味よく、仕事の記憶からプライベートの思い出まで、あらゆることを懐かしそうに、楽しそうに、慈しむように語ってくれた。
そうして語られたものは、クリエイターとしての飯野氏のストイックな生きかた、そして、人間、飯野賢治の姿だった。
飯野由香 氏(いいの ゆか)
2022年8月よりフロムイエロートゥオレンジ代表に就任。1995年に飯野賢治氏と結婚。飯野賢治没後10年記念企画で、同氏のゲーム音楽配信実現に奔走した。(文中は由香さん)
出会いはパナソニックショウルームの“3DO婚”
――本日は飯野賢治氏の世に知られている姿、知られていない姿、いろいろとお聞きしていきます。まず、由香さんが初めて飯野氏に出会ったときというのは?
由香さん私はもともと松下電器(※当時/現パナソニック)に新卒で入社したんです。大阪のショウルーム勤務でした。当時、百貨店の3分の1のフロアがパナソニックのショウルームだったんですよ。
――そんな華々しい百貨店のショウルーム勤務の方が、どうしてゲームクリエイターとお知り合いに?
由香さんその中に、大勢のお客さんを呼ぶためのイベントを考えたりする部署があったんです。そこにいたときに、パナソニックが3DO(※)を出したんですよ。
――ああああ、なるほど! 腑に落ちました。
由香さんゲームの人は察しが早い(笑)。
※3DO……3DO REAL(スリーディーオー・リアル)。1994年に松下電器産業(当時。現パナソニック)より発売されたゲームハード。飯野賢治氏の代表作『Dの食卓』は1995年4月1日、3DO向けにリリースされた。それ以前にもワープからパズルゲーム『宇宙生物フロポン君』が発売されていた。
――おふたりをつないだのは3DOだったといっても過言ではないですね。
由香さん本当にそうなんです。いまとなっては昔話ですが、当時の松下電器は社運をかけて3DOを推し出して「絶対に勝ち取るんや!」という並々ならぬ思いでいたので、正面玄関にはもう全ッ部3DOを並べていましたね。ズラッと。
そんななか、3DOを使って毎週ゲーム大会をやるというイベントがあったんです。そこで大会に使うソフトを選ぶための説明会があったのですが、そこに夫……後に夫となる飯野賢治がいたんですよ。
そこで夫がワープ代表として『宇宙生物フロポン君』のプレゼンをしたのですが、夫は昔からあの黒服に長髪という風貌で、登場してきたときみんなざわついたんですよね。「なんじゃ、あの人?」って。
でも夫がプレゼンを始めたらそれがおもしろくて、それまでマジメな製品説明会の空気だったのが、急に笑い声が出るようになって、もうドッカンドッカンウケたんですよ。大阪って笑わせたら認められるところがあるんですね。そこでみんなから「こいつ、やりよるな」って目で見られるようになって。
――ほかの会社は広報や営業の方など、きちんとした説明する人が出て来るんだけど、ワープは社長の賢治さんご本人が出てきて。
由香さんそうです。夫のプレゼンはほんとにおもしろくて。私は、それまでワープって会社も知らないくらいだったのですが、そんな夫を見て「私、この人と結婚するかも」って思ったんですよね。
――えええ、直感的に。
由香さん後日、3DOのショウルームに夫が来て、「飯野さんっておもしろいですね」とか、いろいろと話をしたんです。
そのときに「私、(賢治さんと)結婚するような気がするんですけど、私と結婚する気しませんか?」と言ったら、「キミ、頭おかしいの?」って返されて(笑)。
――(笑)。
由香さんその後、あるときショウルームの仲間たちで「東京へ行こう」という話になって、大阪から東京へ遊びに行ったんですよね。
それをワープの営業さんにたまたま話したら、いっしょにご飯を食べに行くことになって、そこに夫も来たんです。イヤイヤ連れてこられたらしいんですけど(笑)。
青山にあるピザ屋さんに行ったんですよね。ただ、そのピザがオーダーミスか何かでなかなか出てこない。そうしたら、だんだん私たちが乗る予定の帰りのバスの時間が近づいてきて。でも夫はそこのピザを愛していて「これは関西では食べられないから、絶対に食べていってほしい」って強引に引き止めるんです。
でもピザがまだ出てこなくて。けっきょくピザが出てきたタイミングでは、「最終バスに間に合わへん!」って時間で、店を出ようとしたのですが、夫は「いや! これだけは食べていって!」って。
――ピザが焼ける時間とバス時刻のせめぎ合いが(笑)。そんなにおいしいピザだったのです?
由香さんおいしかった……と思いますけど、めっちゃ急いで食べたから味はほとんどわからなかったですね。
――あはは。
由香さん熱々のピザを頬張って「ごちそうさま~ありがとう~!」って、全員で東京駅までダッシュで行ったら、私たちが乗る予定やった最終バスが目の前でブーンって。
――行っちゃった(笑)。
由香さんあああ~ってみんなで発車シーンを見送りましたね。
やっぱりピザ食べてる場合ちゃうかった……って落ち込んでいたら、当時のワープの人とみんなでそのまま朝までドライブすることになって、東京の観光名所を巡ってもらったりして、それがまたすごく楽しかったんです(笑)。
そんなこんなで付き合うことになり、遠距離恋愛での交際を経て、半年くらいで結婚しました。
「原稿を書くことで、夫のたいへんさが少しわかったような気もしたんです」
――そうしてご結婚された後、由香さんはゲーム雑誌でコラムを連載することになります。
由香さんセガサターンの専門誌で毎号ワープの情報が掲載される連載ページがあったんですけど、そこで「奥さんのコラムを入れてみませんか?」っていう話をいただいたんです。それがコラムを始めたきっかけですね。
自慢して申し訳ないんですけど、それが読者アンケートの上位に入る人気コーナーになったんですよ!(笑) その後、サターンからドリームキャストにハードが移行することで、最初に連載していた雑誌が休刊になり、今度は別のドリームキャストの専門誌で連載を続けていたんですけど、その雑誌も終わってしまって、そのタイミングで『ファミ通DC』さんに声を掛けていただいたんです。
――『ファミ通DC』に移籍したタイミングで内容に変化などは?
由香さん連載を始めたころは日記風に書いてました。雑誌のインタビューでは見せない、夫のプライベートな部分と言いますか。ふだんは強面なイメージがあるけど、じつはチャーミングなんやでみたいな(笑)。
最初はそういう夫の一面を中心に書いていたんですけど、あるとき、夫に言われたんです。
「こういうのは、ほかの人がうらやましいと思うような方向性か、ちょっとした気づきがある方向性のどっちかなんだ。でも由香の場合はうらやましいにはならないから、何かひとつでも気づきを感じてもらえるような内容のものを書いてみたら?」って。
でも、そう言われた途端にペンが止まってしまったんですよ(笑)。
――いきなりそんな難しいことを言われたらそうなりますよね。
由香さんハードル高いですよね。でも「こんなことがあったよ」、「こういうことってあるよね」って、皆さんが共感してくれるようなイメージだったら書けると思って。
最初はいま読み返してみても恥ずかしい内容ですが、回を追うごとに本当に少しずつですが、自分なりに成長を感じるようになっていきましたね。
――しだいに何らかの内容が盛り込めるようになっていった。
由香さんはい。私としては、れっきとしたお仕事としてやらせてもらっていたんですね。これで生みの苦しみなんて言ったら笑われると思うんですけど、それがわかったような気持ち。原稿を書くことで、夫のたいへんさが少し分かったような気もしたんです。
――連載時の思い出って何かありますか?
由香さん久しぶりに当時の連載ページを読み返してみたんですけど、思ったのは、彼がぜんぜん家に帰って来ないってことですね!(笑)
――当時の連載記事を拝見すると、「賢治さんが家に帰ってこない……」という内容の回がけっこうな頻度でありますよね(笑)。
由香さんそうなんですよ。夫が家に帰ってこないから不安に思ったとか、そんなんばっかりやなって。
――“ゲームクリエイターの妻”という立場での由香さんの日々がかなり赤裸々に書かれていて、クリエイター本人が書くコラムとはまた異なる独特の味わいがありますね。
由香さんもう、飯野家のことをかなり赤裸々に書きましたね。ドキュメンタリーですよ。それが読者の方にウケていたようなので、包み隠さず書いてました。
経営者、クリエイターとしての飯野賢治
――飯野賢治氏はクリエイターであると同時にワープの代表取締役社長でもありました。社長としての飯野さんはどんな方だったんですか?
由香さん振り返ると、やっぱり経営者ではなく、クリエイターだったと思います。「『Dの食卓2』とか、いったいいくら開発費使ったんですか?」っていうくらい掛かってますよね。
――かなりの大作でしたから、開発費もものすごいはずですよね。
由香さん開発中に「いまはこんなの作ってるんだ」って開発画面を見せてくれても、その後、「あれはなくなった」とか平気で言うし、何回やり直してるん? って(笑)。
そんな感じで封印された企画は山ほどあります。でも、あれだけ徹夜して考えた企画でも、できないことがあるんだなって思いましたね。
――それを聞くと惜しいですよね。世に出なかった賢治さんの作品、企画書だけでも見てみたいです。
由香さん『風のリグレット』の怖い版で『霧のオルゴール』っていう企画があったんですけど、何かで出せたらなとは思いますね。
由香さんから見た『風のリグレット』と『エネミー・ゼロ』(事件)
――『風のリグレット』は、グラフィックスがないという斬新な企画で、他作品に比べても作風が違いますよね。由香さんは『風のリグレット』をプレイされてどんな印象を受けましたか?
由香さん「音だけでゲームするの?」ってビックリしたんですけど、夫は変わり種が好きだから、あえてそういうのがおもしろいのかなって思いましたね。
何より、キャストが豪華じゃないですか。菅野美穂さんも出てるし。でも夫は最初、菅野美穂さんを知らなかったんですよ。脚本を手掛けてくださった坂元裕二さんといっしょにいろいろなビデオを観て、そこから配役を決めていました。
そんなとき、夫が「菅野美穂って知ってる?」って言うから「え、逆に知らんの?」って(笑)。
「出演を依頼しようと思ってるんだよね」と聞いて、「そんなすごい人に頼むの?」と思いましたね。篠原涼子さんも出てるし。
――そうそうたるメンバーですよね。
由香さん『風のリグレット』の収録の際、差し入れとしてスタジオにプロの板前さんを呼んで、スタッフさんに本格的なお寿司を振る舞ったことがあったんですよ。そのとき私も呼ばれて行ったんですけど、そしたら菅野美穂さんや篠原涼子さんがいたんです。
なんとそこで、菅野美穂さんが「飯野さんの奥さんってすごく綺麗!」って言ってくれたんですよ。だから「私は菅野美穂に綺麗って言われた女よ」って、しばらく名乗ってました(笑)。録音しておけばよかったです。
――(笑)。1996年発売の『エネミー・ゼロ』では、開発中に発売プラットフォームが変わるという出来事がありました。当時由香さんは隣で見ていて、どういう意識だったんですか?
由香さん“エネミーゼロ事件”ですよね(笑)。
この話、必ず聞かれるんですよ。ですが私は基本的に家にいて、夫は仕事のことをあまり家庭に持ち込まなかったので、詳しいことは知らないんです。でもあるとき、夫が「ちょっと……変えるんだよね」って、緊張している様子で言い出して。
私はあまりピンと来てなかったんですよ。ちょっと緊張しているのも、プラットフォームを変えたら、まわりの人に迷惑が掛かっちゃうとかそういうことなのかな~くらいの感覚だったんです。
そして、実際に見たとき、イベント会場の発表壇上で、(プレイステーションからセガサターンに)ロゴが変わって、そうしたらまわりがザワザワ……ザワザワ……し始めて。
――不穏(笑)。
由香さんでも、当時の私としては、ぜんぜんわかっていませんでした……というのが、回答になるんですよね。
――“個性派クリエイター”というイメージの飯野さんは、インタビューでの歯に衣着せぬ発言から、多くのファンと、逆にアンチもいたと思います。そのあたり、由香さんからはどのように見えていましたか?
由香さんアンチね、いましたね!
――(笑)。
由香さん昔、ワープの電話受付を手伝ったことがあったんですけど、そのときに「なんでこんな難しいゲーム作ったんだ!」って電話口で怒られたんですよ。
で、私がショウルーム経験があるもんですから「誠に申し訳ございません」とていねいに返事していたんですよ。そうしたら「謝らなくていい。そういうソフトだからがんばってクリアーしてね」と言ったほうがいいと。
あと、当時は電話帳に実名と住所がふつうに載っている時代でしたから。
――あああ、調べれば電話番号がわかっちゃう。
由香さん名古屋から電話がかかってきて、出たら「あんなク●ゲー作って、もうゲームクリエイター辞めてください」みたいなことを言われて。しかもコレクトコールですよ!(※) もう「ふざけんなよ!」って怒りましたね。
※コレクトコール……電話を受け取ったほうが電話代を支払うという、よくわからないシステム。
ただ、2000年以降のネットの時代になっても「ビッグマウス」とか「口だけ男」とか書いてる人がいて、それを見て「何も知らんくせに!」っていう悔しい思いがありました。
――本当にそうですね。
由香さんだからそれを夫に言ったら「そんなのぜんぜんいいんだよ」って言っていて、本人は気にしていませんでした。
――おお。
由香さん「かっこいい~!」って思いましたね(笑)。
――ごちそうさまです(笑)。
『D2』制作時の飯野氏の苦悩
――賢治さんを見ていて、開発がとくにたいへんそうだなと思ったタイトルは何かありますか?
由香さんそれは『Dの食卓2』ですね。ドツボにハマって、もうどうしたらいいかわからないような状態でした。
自分が思うものを作りたいという欲求もあるし、売れなければいけないという思いもあるしで、プレッシャーがすごかったと思います。家に帰ってきても魂がないような状態でした。最初、発売時期を春と言ってたのに、夏になり、秋になり……となって、本当に辛そうでしたね。
――『Dの食卓2』はワープの集大成とも言える作品ですし、賢治さんの思いも並々ならぬものがあったんでしょうね。
由香さんその前だと、『エネミー・ゼロ』の音楽をマイケル・ナイマンに依頼したときもたいへんだったと思います。
ナイマンは映画音楽の作曲家なので、最初は断られたんですよ。でも必死の思いを伝えたら、「そこまで言うんだったら」ということでOKしてくれたんです。
結果的に『エネミー・ゼロ』は売れてくれたから、ワープ・プレゼンツでコンサートもやったんですよ。
――『エネミー・ゼロ』では、20万円の豪華限定版を飯野さん自らがファンの家に届けるという企画もやっていましたね。
由香さんああいうのが好きなんですよね。
あと覚えているのは、ワープの最初のころ、(当時のワープの所在地である)恵比寿でソフトを手売りしてみたりとか。そうしたら、どこからともなく「ここがどこかわかってるんか?」って怖い人が出てきたりしてたみたいで。
――それは……(笑)! 飯野賢治作品は前例のないようなゲームが多いですし、やっぱりほかの人と同じものを作ってもしょうがない、おもしろいこと、新しいことをやりたいという強い気持ちがご本人にあったのですかね。
由香さんそうですね。もともと移植、続編、キャラクターものを「ゲーム業界の三大悪」と言ってて、それを変えたいって気持ちでやっていたんです。
――ところで、ワープからスーパーワープに社名変更したときがありましたけど、あれは『Dの食卓2』以降に考えられたんですか?
由香さん急に「社名変更する」って言い出したんです。でもそのあと、またすぐに変えたんですよ。それが現在のフロムイエロートゥオレンジですね。
――スーパーワープという社名は、なぜすぐに変えたんですか?
由香さん画数が悪かったんですよ。
――か、画数!?
由香さん夫に「“スーパーワープ”って社名、画数が最悪やで!」って言ったら「え、そうなの?」って。
そもそも、夫は占いとかは大嫌いなんですけど、画数は子どもの名前を決める時も見ていたから気になるみたいで。
――へええ……意外な理由でした。
由香さん夫は「そんな画数悪いなら、先に言ってくれよ」って言われました。いやいや、そっちが先に決めちゃってたやんって!
――確かに(笑)。
由香さんその後フロムイエロートゥオレンジにするときは、事前に私に言ってくれました。
人間・飯野賢治。プライベート秘話
――賢治さんのこだわりの強さは、ゲーム制作だけではなくプライベートでも感じましたか?
由香さんはい、もちろん。
たとえば、いまでこそネットが普及しているから個人旅行も行きやすくなりましたけど、昔は個人旅行ってハードルが高かったじゃないですか。なのに「ツアー旅行はヤダ」って言うんですよ。
――飯野さんは旅がお好きな方だったようで。ただ、個人旅行はパックツアーに比べて割高になっちゃいますよね。
由香さんそうなんですよ。そのうえ、「一泊50000円以上の極上の宿にしてくれ」と。
当時はまだネットもないから、私が一件一件電話してました。夫が言うには「インプットがないと作品が作れないから」だと言うんですけど。そのインプットしたおいしいごはん、ゲームのどこに出てくるの!? とは少し思いましたね(笑)。
――そんな豪華な食事は『Dの食卓』には出てこないぞ、と(笑)。旅行や食事以外ではどんなインプットを行っていたんですか?
由香さん家族で本屋さんに行くことが多くて、そこで毎回30000円ぶんくらい本を買ってました。家は本だらけです。本棚には入り切らないから、いつも青山ブックセンターの紙袋にしまっていて。
ジャンルはこだわらずいろいろと買っていましたね。でもその中だとデザイン関係の本が多かったです。
――賢治さんは脚本も書くし、作曲もするし、デザインもするので、さまざまなインプットが必要だったんでしょうね。飯野さんと言えば音楽も外せない要素ですが、ふだんから何か楽器を弾いていたりはしましたか?
由香さん一時期、家にグランドピアノがあったんですよ。それは当時日本に2台くらいしかないピアノで、YAMAHAさんが貸し出していたものだったので、うちでお借りしていたんです。
彼も弾いていましたけど、仕事で忙しいときは家にいないので……それはおおよそいつもなのですが……子どもが軽く触れる感じでしたね。
――子ども用のピアノにしては豪華な(笑)。
由香さん豪華すぎますよね。
夫が亡くなった翌年、実家の大阪に引っ越して、そこに古いピアノがあったので、次男にはピアノを習わせたんです。ピアノの発表会で『エネミー・ゼロ』の『愛のテーマ』を弾かせました。『風のリグレット』のエンディング・テーマ『ひとつだけ』も弾けるんです。
次男が5歳のときに亡くなったので、ゲームクリエイターとしての飯野賢治はまったく記憶にないようなのですが、その曲は弾けるようになってもらいました。
――それは聴いてみたいですね……賢治さんは『D2』以降ゲーム制作から離れることになりましたが、精神的な部分で何か変わったことはありましたか?
由香さんクリエイティブな部分での苦悩はなくなったけど、そのぶん、数を打つ企画をしなくてはならなくなったので、より仕事っぽい仕事をするようになってましたね。それもあって、イルカ(ILCA)の学校(※)とか、正式リリースにはいたらなかったですけど『KAKEXUN(カケズン)』(※)の企画を考えていたんですよね。それが自分の中でのリスタートになるはずだったと思います。
※イルカ(ILCA)の学校……INNOVATION、LEARNING、CREATIVITY AND ARTSの学校という意味で、次世代カルチャーを担う若いクリエイターを育成するプログラム。
※『KAKEXUN(カケズン)』……飯野賢治氏が生前残していた企画。2014年、企画書をもとにクラウドファンディングで開発資金を集め、制作が行われたが、製品版の発売には至っていない。
――ゲーム制作のころとは仕事がガラッと変わったわけですしね。
由香さんただそんな中でも、コカ・コーラの自動販売機の商品をおサイフケータイで買えるようにする仕事をしたり、東急電鉄のgoopas(※)を考えたりとか、企画はいつも楽しそうにやっていましたね。
※goopas……グーパス。定期券とメールアドレス情報を結び付け、乗客が自動改札を通った直後に、個人情報にあわせたメールを送るという広告メールシステム。
そんな実積が評価されて、オムロンとNTT西日本のNTTスマイルエナジーのブランディングをやったりとか。ただ、そういうのって裏方でもあるので、数をこなさないといけない面もあって、たいへんそうではありましたね。
夫、父親としての飯野賢治
――賢治さんとの生活を振り返ってみていかがでしたか?
由香さん強く覚えているのは、夫がとあるテレビ番組で、『ラブレター』というタイトルで「カミさんへ、今日も愛しています」って詩を朗読してくれたんですよ。それは当時のコラムにも書いていたのですが、すごく愛情を感じるエピソードで、うれしかったです。
その後、長男が生まれるとき破水して先行入院していたことがあったのですが、夫は「出産にも絶対に立ち会いたい」と言ってくれていました。
――当時は出産に立ち会いたいという男性は、それほど多くなかったですよね。
由香さんすこしずつ増えてきたころですかね。ですが、そこは夫がかなり強く「立ち会う」と。だから東京で出産したのですが、私の実家は大阪じゃないですか。
実家の両親にとっては初孫というのもあったので、親は私が里帰り出産をすると思っていたみたいなんです。でも夫は「絶対に東京で産んでほしい」と言っていて、それを親に伝えたら「そんなん言うても、けんちゃん(飯野氏)家に帰ってけーへんやん!」って。
――賢治さんが家に帰らないというのは義両親にも伝わるほどだったわけですね(笑)。
由香さんそれでも出産の際は収録を終えて間に合って、立ち合いに来てくれて。
病院で陣痛の間隔が縮まってきたとき夫が来て、痛みにこらえながら夫を見たら、その時点ではまだ産まれていないんですけど、すでに泣いているんですよ。「ありがとうな……」って。違う違う、まだ産んでないよ、これからこれから。
――(笑)。いいお話ですね。
由香さんそしていよいよ出産で赤ちゃんが出てきたら、夫が「わあああ!」って声を上げてさらに大泣きして。
ただ、その声のせいで赤ちゃんの第一声が私に聞こえなかったんです。赤ちゃんの「おぎゃあ」っていう生まれて初めての声、聞きたいじゃないですか。でもそれに完全にかぶせる形で夫の大きな泣き声が(笑)。
――賢治さんの感動が大きすぎて(笑)。
由香さんその9年後、次男が産まれる際も「立ち会いたいし、長男にも絶対に立ち会ってほしい」と言っていましたね。
――長男に、次男の出産に立ち会ってもらいたいという考えかたがいいですね。命……生命の誕生のとらえかたが、賢治さんらしいと言いますか。
由香さんそうですね。病院の先生にも息子を立ち会わせたいと言ったら、「すばらしい。それこそ性教育だ」って言ってくださって。
「子供を産むというのはこんなにもたいへんなことなんだと知ってもらうのは有意義なことだ」と先生も賛同してくださって、息子も立ち会うことになったんです。次男の出産の時は夫も2回目なので、さすがに大泣きはしなかったですが、やっぱり泣いてました。
――お話をうかがっていると、由香さんはゲームクリエイターとしての飯野賢治を好きになったというよりも、賢治さんの人間性を好きになったんだなと感じます。
由香さんそうですそうです。家に帰ってこられないくらい仕事が忙しい人だったし、本当だったらゲームクリエイターじゃないほうがいいじゃないですか。しかも私は根っからの関西人なんで、絶対に関西を離れたくなかったんです。なのに思いっきり関東の人といっしょになったわけですからね。しかもあのガタイでしょ。
――クリエイターとして、夫として、父として、それぞれ飯野さんはどんな方でしたか?
由香さんクリエイターとしてはすごくストイックで、どこを切ってもクリエイターでした。夫としては……文句しか出てこないですね(笑)。夫婦生活は17年間だったんですけど、実質いっしょに過ごしたのって、3年くらいだったんじゃないかって。このあいだ、自分の書いたコラム原稿を読んだら、「かわいそう、私」ってなりましたもん(笑)。
でもときどき「今度いっしょに旅行へ行こうよ」と言ってくれることもあって、そのときはすごくうれしかったですね。
――家族のことを気にはかけているけど、仕事が忙しすぎるというのもあったのかもしれませんね。
由香さん夫の中では、クリエイターの部分が最優先でしたね。
家庭のことで言い合いになったときも、「いま仕事がどんな時期かわかってるの? お前といたらモノが作れない!」とかかなりキツイことを言われて、私も最初はシクシクと泣いて落ち込んでいたんですけど、だんだんと「おかしくないか!? 私もやることやってますけど!」って思って、言い返すようになりましたね(笑)。
飯野賢治の交友関係
――飯野さんは音楽業界の方との知り合いが多かったと思いますが、とりわけ好きだったという、坂本龍一氏とはふだんから親交があったんですか?
由香さん坂本さんは、夫が熱烈なファンだとずっとお伝えしていたのもあって、かわいがってくださいました。坂本さんが日本に来られた時には、何回もご飯に誘っていただいたり。
夫のお葬式の時にも弔電をくださって「なんでこんなだらしない死にかたをするんだ。許さないぞ。もうちょっとしたらそっちに行くから待っとけ」って、私の中でその言葉がすごく残ってたんです。いまは天国で、夫のことをちゃんと怒ってくれてるかなって。
あと、浅野忠信さんとの親交もありましたね。浅野さんがタワーレコードのCMを撮ることになって、それが誰かといっしょにいるイメージのものだったらしいんですよ。で、「もうひとりを誰にするか」となり、浅野さんがうちの夫を指名してくれたんです。
――なんと。
由香さんちょうど長男を出産したころで、病院に浅野さんが来てくれたんですよ。談話室みたいなところがあって、そこはお見舞いの人が来てもいいエリアなんですけど、そこに浅野さんが来て。そしたら「あれ、浅野忠信じゃない?」ってみんなざわついてたんです(笑)。私の母親もいたんですけど、ビックリして大はしゃぎしてました。
――飯野さんは以前、NORWAYっていうバンドを組んでましたよね。基本ツイッターでメンバーとやり取りして、そこには直接会ったことのないメンバーもいる。そして完成した楽曲をYouTubeにUPするっていう。この作りかたを10年以上前にやっていたことを考えると、すごく前衛的ですよね。
由香さんそうなんですよね。制作するゲームにしろ、バンド活動のしかたにしろ、全部早いんですよ。
――それでは最後の質問になりますが、由香さんにとって飯野賢治さんはどんな存在でしたか?
由香さんうーん……いまも結論が出ていないんですよね。
やっぱり10年経ったいまもいなくなった気がしないというか。どこか私のすぐ近くにいてくれているように感じるんです。
夫がなくなってから10年経って、フロムイエロートゥオレンジの代表をさせてもらうことになったんですけど、それも全部理由があるような気がするんです。私のそばにいて、見守ってくれているような。
だからひょっとしたら質問の答えになってないかもしれなくて申し訳ないんですけど、どういう存在でしたか? と聞かれると、「いまは私の人生を導いてくれる人、と思ってます」という答えになりますね。
[2023年5月15日21:40修正]
記事初出時、一部に誤りがあったため、該当の文章を修正いたしました。