2023年10月4日より、アニメ『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』が放送開始された。マイクロソフトのOS“Windows95”が発売される以前、おもにNECのパソコンPC-9801シリーズをプラットフォームに花開いた美少女ゲーム文化をフィーチャーしたこの作品には、1990年代に発売されていたパソコンやゲームソフトがあれこれ登場する。
この記事は、家庭用ゲーム機に比べればややマニア度が高いこうした文化やガジェットを取り上げる連動企画。書き手は、パソコンゲームの歴史に詳しく、美少女ゲーム雑誌『メガストア』の元ライターでもあり、『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』にも設定考証として参画しているライター・翻訳家の森瀬繚(もりせ・りょう)氏。
アニメ『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』(Amazon Prime Video)1995年はPC業界にとって特別な年となった
1995年11月22日、秋葉原は異様な熱気に包まれていた。
当時の秋葉原電気街では、多くの店舗が18時から19時にかけての早い時間帯に閉店し、夜遅くまで営業している食堂や居酒屋も皆無ではないにせよ少なかったので(注:電気街口側の話です)、20時を過ぎるころには人通りがあまり見られなくなるものだった。
だが、その日は違った。
日が暮れてからも客足がまったく途切れず、ふだんであれば各店舗が閉店する時間帯からむしろ路上を行き交う人間の数が増え始め、ついには車道に溢れかえるほどに人並みが膨れ上がり、警察が車両を出して自動車の通行を規制する騒ぎとなった。
そうした中、ソフマップ秋葉原1号店やT-ZONEミナミなどの中央通り沿いの大型店舗や、“ザ・コン”の愛称で秋葉原通いのPCマニアから親しまれていた神田明神通り沿いのラオックス ザ・コンピュータ館を中心に群衆が形成され始めた。大型店舗だけでなく、雑居ビルに入っているようなショップも少なからず店を開けていて、そうした店を覗いて歩き回っている者もいた。
そして、11月23日の午前零時。各大型店舗の店頭でカウントダウンの声が響く。中でも100メートル以上の列ができていた(日本経済新聞11月23日朝刊)という“ザ・コン”の正面入り口では、マイクロソフト日本法人の成毛眞社長らがくす玉を割り、ついには花火まで打ち上がり──。
“Windows 95”の日本語版パッケージは、このようなお祭り騒ぎの中で発売されたのだった。
この日、秋葉原に集まった人々は、20000人以上にのぼると言われている。
鳴り物入りのソフトウェアやハードウェアの販売開始時に深夜販売を行うという秋葉原の伝統は、じつにこのときに始まったもので、3年後となる1998年7月25日のWindows 98発売の際にも、Windows95のときほどの数ではなかったが1600人超の人々が秋葉原に集まったという。
莫大な宣伝広報費が投入されてテレビでも盛んにコマーシャルが流れ、発売直前の秋葉原の様子はテレビ朝日系列の人気報道番組『ニュースステーション』(当時のキャスターは久米宏)を始め、各局の報道番組でも取り上げられた Windows 95 。
しかし、その登場によって、一夜にしてPC-9800市場が滅び去ったわけではなかった。
一般的な美少女ゲーマー(美少女ゲームのプレイヤーであって、プレイヤー自身が美少女であるというわけではない)の視点で見ると、1995年は98シリーズの最盛期だった。
1993年から1995年にかけて、98用ゲームの年間販売タイトル数は450前後をキープし、その過半数を美少女ゲームタイトルが占めていたのだが、1995年には6割を越えていた。
『同級生2』(エルフ)、『EVE burst error』(C's ware)、『黒の断章 The Literary Fragment』(アボガドパワーズ)、『Only You』(アリスソフト、ただしファンクラブ専売)などの名作が数多く発売されていて、ここで挙げた作品については後に家庭用ゲーム機にも移植されている。(注:『Only You』については、2001年発売のリメイク版『Only you -リ・クルス-』の移植)
筆者の記憶している限り、秋葉原の中央通り沿いのショップの店頭で、成年向けの美少女ゲームのデモムービーが堂々と流されはじめたのも、たしかこの年だったように思う。
しかし、一般向けのPC-98用ゲームの販売タイトル数の割合が減少したという事実は、同時に別の事実も暗示していた。Windows 95の発売を待たずして、すでにPCゲームのプラットフォームが Windowsへと移行しつつあったという事実を。
Windows 95の発売前後のお祭り騒ぎで初めてパソコンに目を向けたという層も確かに多かったが、PC-98シリーズのヘビーユーザにとって、Windowsは初対面というわけでない。
というのは、PC-9801CS5/W、PC-98GSなど、1991年発売のモデルにおいてすでに Windows 3.0がバンドルされていたからだ。のみならず、1993年に登場した後継機種、PC-9821シリーズのハードディスクモデルには、そのほぼすべてにWindows 3.0ないしはその改良版であるWindows 3.1がプリインストールされていたのである。
Microsoft Windows の歴史は古く、最初の製品である Windows 1.0は1985年11月に発売され、1年後の1986年11月には早くもPC-9801VX4/WN にバンドルされている。
しかし、この時点ではまだ明らかに発展途上のソフトであり、Mac OSや後のWindows95のような独立したOS(オペレーティングシステム)というわけではなく、MS-DOSの機能を拡張し、使い勝手を向上する“ガワ”でしかなかったため、それほど普及はしなかった。
この状況が変わるのは、Mac OSライクのグラフィカルなユーザインターフェースを実装したバージョン 3.0(1990年)になってからのことで、とりわけ改良版である Windows3.1(1991年)のパッケージは全世界に1億本を出荷したといい、そのうち400万本が日本での販売本数だった。
日本でWindows系OSが広まった要因として、PC-9821シリーズにバンドルされていたことも無視できないが、当時は“DOS/V”と総称されていたIBM PC互換機の国内進出も大きい。
DOS/Vというのはもともと、特別なハードウェアなしにソフトウェアのみで日本語表示を可能とするIBM DOSバージョンJ4.0/V以降のOSの通称だ。Jは日本語対応、Vはグラフィックス表示の仕様であるVGA(640×480ドット)を意味している。
「IBM DOS? MS-DOSじゃないの?」と疑問に思われる向きもあるかもしれないので、ここで簡単に両者の説明をしておこう。
1980年代初頭、コンピューター産業には大雑把に汎用機(メインフレーム)、ミニコン、パソコンの市場があった。IBMというと、コンピューター産業の頂点に立っていたという印象を持たれている方が多いことと思うが、同社がトップシェアを誇ったのは汎用機で、ミニコン市場ではDECなどのメーカーに遅れを取っていた。
1980年当時、勃興しつつあったパソコン市場でも後発になることを恐れたIBMが、1981年に投入したのが、いわゆる“初代IBM PC”ことIBM 5150。このマシンにバンドルされる基本ソフトウェアとして最終的に採用されたのが、マイクロソフトとの共同開発(真面目に解説するとたいへん長くなる紆余曲折があった)によるIBM PC DOSだった。そして、マイクロソフトが独自に展開した、このOSの非IBM企業向けOEM製品がMS-DOSなのである。
ちなみに、マイクロソフトとIBMの協力関係は1992年まで継続し、それ以前のバージョンについては、両者は名前が違うだけの同じソフトウェアだったわけだが、1993年発売の MS-DOS Ver.6(3月)、PC DOS 6.1(6月)以降は別個の製品となっている。
さて、話を“DOS/V”に戻そう。
前述のとおり、もともとはOSの名称だったDOSVだが、日本では当初、IBM互換パソコンの呼称として“DOS/Vパソコン”、“DOS/V機”などが使用された。その後、DOS時代が終わりを告げてWindows時代に以降する頃には、“PC/AT互換機”という呼称がもっぱら用いられるようになった。PC/ATというのは1984年に発売されたIBM PC AT(IBM 5170)の略称で、現在のWindows系OSが動作するパソコンの直系の先祖であることは確かだ。ただし、発売から40年近い歳月が流れ、パソコンの仕様は大きく変化していて、PC/ATとの互換性は事実上失われて久しい。とりあえず、この記事では1990年代当時に合わせてDOS/Vパソコンと呼ぶことにする。
日本IBMはマイクロソフト日本法人の協力のもと、1990年12月にOADG(PCオープン・アーキテクチャー推進協議会)を設立。日本国内のPCメーカー向けに、日本語を使用可能なDOS/Vを供給していくことを大々的に発表した。OADGに参加し、DOS/Vパソコンの開発に舵を切った国内メーカーの中には、独自の32bitパソコンである FM TOWNSシリーズを展開していた富士通や、98互換パソコンを出していたエプソンも含まれる。
そうした中、1980年代からIBM PC互換パソコンを展開していた米国のコンパック・コンピュータ・コーポレーションが日本に進出。1992年10月に同社の日本法人が発売した Prolinea 386/25 は、最安のモデルで12万8000円、当時のレートで1000ドルの低価格モデルを市場に投入した。これは、同程度の性能の日本国内メーカーと比べ、ことによると半額近くとなる破壊的な価格であり、“コンパックショック”と呼ばれている。これによって、コンパックのDOS/Vパソコンが市場を席巻した──わけではじつのところなかったのだが、ほかのOADG参加メーカーも軒並み低価格化に追随したことで、NEC一強の時代が長らく続いていた日本国内のパソコン市場の状況が大きく変化することになる。
浅井澄子氏の研究『パソコン市場における競争の程度の計測』(『大妻女子大学紀要 社会情報学研究』2007年16号)によれば、パソコンの年間生産台数は1992年ごろから増え始め、1994年から1997年にかけて爆発的に増加しているにもかかわらず、NECの市場占有率は1992年ごろから減少の一途をたどっている。そして、年々拡大するDOS/Vパソコン市場と、依然、トップシェアを占めてはいるPC-98シリーズの双方で動作するゲームソフトを供給可能なプラットフォームが、Windows 3.xだったのである。
だから、Windows 95が発売された時、MS-DOSと Windows 3.1両方が立ち上がる環境を組んでいたPC-98ユーザが数多く存在し、ただちに全面的に切り替わったわけではなかった。
なお、アリスソフトをはじめ、一部の美少女ゲームメーカーは、1992年ごろからWindows 3.1への対応を始めていたが、多くの場合、富士通 FM TOWNS版や SHARP X68000版、そしてMacintosh などの非PC-98メーカー向けの移植版も発売していたメーカーが、新たにもうひとつプラットフォームを増やしたというもので、“移行”というほどのものではない。
最初にWindows専用の独自タイトルが発売されたのは、1996年ごろだと思われる。これらの作品はたいてい Windows 3.1/95の両方に対応していたが、何しろWindows 95の発売後だったので、“3.1”の文字はすぐに対応機種から消えていった。
Windows 3.1/95両対応タイトルの例:
- 1996年8月2日『BLUE EYES』(フェアリーテール・ハードカバー)
- 1996年9月12日『同窓会 ~Yesterday Once More~』(フェアリーテール)
また、Windows 95は、3.xに比べるとビジュアル/サウンド面が強化されてはいたが、ゲームのプラットフォームとしてはまだまだ改良の余地があった。マルチタスクで複数のアプリケーションを同時に動かすことを前提として設計されたOSなので、発売当初はたとえばアクションゲームのように、MS-DOSおよびそれ以前の環境ではプログラムから直接ハードウェアを操作していたようなゲームソフトには向いていなかった。
このあたりがしっかりと整備されたのは、マルチメディアコンテンツをWindows上で動作させるためのAPI(アプリケーション・プログラミング・インターフェース)、DirectX のバージョン 3.0がリリースされた1996年ごろになってからで、美少女ゲームメーカー各社が本格的にWindowsへと移行しはじめるのもこの年のことである。
1996年に発売されたPC-98用美少女ゲームのタイトル数は200前後。『雫』『痕』(ともにLeaf)、『Piaキャロットへようこそ!!』(カクテル・ソフト)などの人気作が数多く発売された年であるにもかかわらず、PC-98の時代はまさに終焉を迎えようとしていた。
『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』連動企画コラム一覧
- 第1回:エルフ『同級生』(1992年)を振り返る。PC恋愛アドベンチャーの道を切り拓いた異例のPCタイトル
- 第2回:1990年代のPC美少女ゲーム業界と“沙織事件”。成人ゲームと“ソフ倫”の誕生
- 第3回:「国民機」と呼ばれたマイコン“PC-98”シリーズを紹介(前編)
- 第4回:『雫』『痕』、そして『ToHeart』。ビジュアルノベルの誕生と繚乱
- 第5回:本記事
- 第6回:PC用ソフトで花開いた“美少女ゲーム”。その家庭用ゲーム機移植版アレコレ
- 第7回:『下級生』『痕』『EVEバーストエラー』などWindows時代の美少女ゲームのソトミとナカミ
- 第8回:“お姉ちゃん”といえば誰が思い浮かぶ? 1980年代~2000年代“姉キャラクター”考察
- 第9回:PC黎明期の“お色気ゲーム”。プレイヤーの高い想像力を必要とするそれはPCの誕生・発展とともにあった
- 第10回:1980年代、PC(マイコン)向けにさまざまなメーカーが展開していた“お色気ゲーム”黎明期を解説(中編)