2023年10月4日より、アニメ『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』が放送開始された。マイクロソフトのOS“Windows95”が発売される以前、おもにNECのパソコンPC-9801シリーズをプラットフォームに花開いた美少女ゲーム文化をフィーチャーしたこの作品には、1990年代に発売されていたパソコンやゲームソフトがあれこれ登場する。

 この記事は、家庭用ゲーム機に比べればややマニア度が高いこうした文化やガジェットを取り上げる連動企画。書き手は、パソコンゲームの歴史に詳しく、美少女ゲーム雑誌『メガストア』の元ライターでもあり、『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』にも設定考証として参画しているライター・翻訳家の森瀬繚(もりせ・りょう)氏。

『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』(Amazon prime Video)

ラジオ会館が取り壊しに!?

 窮地に立たされたアルコールソフトを救うべく、美少女ゲームの開発に未来知識を注ぎ込んだ秋里コノハ。“現在”に戻った彼女を待ち受けていたのは、変わり果てた秋葉原。そして、いまにも解体されようとしている秋葉原ラジオ会館の姿だった──!

 1992年に始まり、時代の節目節目へとタイムリープを繰り返した『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』は、いよいよ2023年に舞台を移す。しかしそれは、コノハはもちろん、視聴者も知らない未知の時代と化した異形の現代なのである。“秋葉原電気街”のシンボルともいえるラジオ会館の破壊こそは、この衝撃を視覚化する実に効果的な展開だ。

 本作と同じく、レトロPC文化を題材としていたゲーム・アニメの『シュタインズ・ゲート』でも、人工衛星が旧ラジオ会館(後述)に落下するという展開があった。

 JR秋葉原駅南口の正面、東京都千代田区外神田一丁目に屹立する秋葉原ラジオ会館は、1962年に竣工し、“ラジ館”の呼称で長年親しまれてきた、秋葉原の顔ともいうべきランドマーク・ビルディングである。オーナー企業は株式会社秋葉原ラジオ会館。1893年に設立された老舗の法帖図書(書道関連書)出版社である西東書房がその前身で、やがて不動産・賃貸業にも携わるようになった同社が、1953年に株式会社秋葉原ラジオ会館を新たに設立したのである(西東書房自体は、同社の出版部として事業継続)。

 地上8階建ての秋葉原ラジオ会館は、じつのところ2代目にあたる。

 現在ビルが建っているあたりの北西の一画に、1950年に建設された木造2階建ての店舗が“秋葉原ラジオ会館”の看板を掲げた最初の建物で、同じ年に別館がその隣に建てられた。

 その後、1962年に電気街最初の高層ビルである8階建ての“秋葉原ラジオ会館電化ビル”が建造され、さらには1972年に古い木造2棟を取り壊して“秋葉原ラジオ会館新館”が建造。これが電化ビルと繋げられて、“秋葉原ラジオ会館本館”となったのである。

ラジオ会館の歴史(ラジオ会館 公式サイト)
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 現在の新本館ビルは2014年に建て直されたものなので、言ってみれば3代目ということになるだろう。アニメで解体されているのも、こちらの方である。

 以下は、解体の少し前、2011年8月に筆者が撮影した写真である。

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 ところで、どうして“秋葉原電気会館”などの名前ではなく、“ラジオ会館”だったのか? そのことは、秋葉原電気街の成立と深く関わっている。

 このあたりで、『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』の主要な舞台であり、1985年にはエコーソフトが、1990年代にはアルコールソフトが社屋を構えた秋葉原の歴史について振り返ってみることにしよう。

秋葉原の歴史

 まず、現在の秋葉原駅の周辺は、江戸時代の末期には下級武士の家屋が立ち並ぶ居住地域だった。しかし、1869年(明治2年)の12月12日に神田相生町で発生した火事が、1000戸を越える建物が焼失する大火へと発展。火事の後、対策を施すにあたり、被害地域がもともと住宅と狭い路地がひしめく消火活動の困難な地域であったことを受け、現在のJR秋葉原駅あたりを中心とする地域が整理されて、東西に長い長方形の火除け地がもうけられた。

 その中心のあたりに、火事を鎮める神々として火を司る火産霊大神(ほむすびのおおかみ)、水を司る水波能売神(みずはのめのかみ)、そして土を司る埴山毘売神(はにやまひめのかみ)を祀る鎮火社が設置されたのだが、どういうわけか地元住民が、この神社の祭神を“秋葉様”だとすっかり勘違いしてしまったのである。“秋葉様”というのは遠州(静岡県)浜松市にある秋葉大権現のことで、火の神である火之迦具土大神(ひのかぐつちのかみ)を祀るこの神社は、火事が日常茶飯事だった江戸の町民たちの間で人気を集めていたのだった。

 そんなこんなで、この広大な原っぱは“あきばはら”、“あきばのはら”、“あきはっぱら”などとさまざまに呼ばれ続け、1880年代に入るころには、地図にも載せられるほどにそちらの名前が定着していた。そして、1890年に上野駅を起点とする鉄道路線がひかれた際、正式に“秋葉原線(あきはのはらせん)”、“秋葉原駅(あきはのはらえき)”と命名される運びとなったのである。(“あきはばら”への改名は1911年)

 当時はまだ水運に使われていた神田川と鉄道路線が交わる秋葉原は、帝都東京市の物流拠点として栄えた。また、1928年(昭和3年)に、神田須田町から現在の秋葉原UDXのあたりに移転してきた神田青果市場は、1990年まで秋葉原駅の北側に存在していた。

 それがどうして電気街になったのか。そのルーツをたどっていくと、1940年代に遡る。

 第二次世界大戦後、おもに中国大陸から帰還してきた復員兵や引き揚げ者たちが上野周辺に集まり、それぞれの得意分野を活かして商売を始めた。たとえば、アメヤ横丁(アメ横)は、芋飴の店がたくさんあったことから、その名前で呼ばれるようになった。

 正確にいつ、誰が最初に始めたのかはいまもって不明だが、技術に明るい復員兵たちが現在の神田駅から小川町のあたりに集まり、道沿いにところ狭しと露店を連ねて、ラジオの部品や衣料品を扱う商売を営み始めた。

 ちなみに、後に秋葉原の有名店となるサトームセンの前身、佐藤無線研究所の設立が1946年5月である。そうした中、1949年に連合国軍最高司令部(GHQ)が露店撤廃令を発令する。焼け野原となった東京市復興の一環として、道路を整備する目的だったのだが、当然ながらそれでは露天商としては生活が立ちゆかなくなる──そこで、山本長蔵氏を中心とする露天商たちがGHQ司令部と交渉を重ね、衣料品店については日本橋の小伝馬町のあたり、電子部品店については秋葉原の高架下などの国や都の管理する土地を、代替店舗として使用する許可をもぎとったのだった。

 かくして、国鉄秋葉原駅の周辺地域はまず、ラジオ部品の専門店が立ち並ぶ街となり、最初の秋葉原ラジオ会館が建てられる運びとなったわけである。

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 やがて、朝鮮戦争の特需も背景とする高度成長期を迎え、日本が急激に豊かになっていく昭和30年代に入ると、明るい電灯に象徴される家電ブームが到来した。ジャーナリスト・作家である大宅壮一氏は、三洋電機が洗濯機を発売しNHKが白黒テレビ放送を開始した1953年を“家電元年”と命名している。

 ラジオ部品の町だった秋葉原は家電製品の町へとゆるやかにシフトし、首都圏の市民が集まる当世風の文化生活の中心地となった。秋葉原電気街名物である歩行者天国が最初に実施されたのは1973年で、この同じ年、ラオックスホールディングスの前身である朝日無線電機の本店ビルが、現在もラオックス秋葉原本店が存在する“東京都千代田区外神田1-2-9”の位置で開業している。

 さて。日本のマイコンブームの引き金となったNECのTK-80が、もともとは同社の8bitマイクロプロセッサの販促キットとして1976年8月に登場した経緯については、本連載の第3回で解説した通り。

 この時、同社の半導体・集積回路販売事業部は、TK-80のアンテナショップとして“Bit-INN 東京(ビット・イン東京)”というショップを秋葉原ラジオ会館の7階に開業した。

 これこそが、秋葉原のマイコンショップ第1号であり、旧ラジ館のこのフロアには“パーソナルコンピュータ発祥の地”のプレートが誇らしく展示されていた。

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ラジ館ビル建て替えまで7回ホールに掲示されていた(日本における)“パーソナルコンピュータ発祥の地”のプレート。提供:すがやみつる氏。

 このブームが一般のご家庭に及ぶ規模に広がるにはさらに数年を待たねばならなかったが、1980年代に入るとサトームセンやロケットなどの店舗につぎつぎとPCコーナーが設置され、当時はオーディオ機器に注力していた真光無線は1982年にオールマイコンビルを建てている。

 外資系の電子部品商社である亜土電子工業も1987年、株式会社トヨムラとの共同でT-ZONE1号店を秋葉原に出店。家電店を駆逐するまでにはいかないにせよ、秋葉原電気街は次第に首都圏におけるPC文化の中心地となっていく。

 ちなみに、アニメの第8話で1985年にタイムリープした六田守が確認のためまっしぐらに向かったのは、脚本担当としては、いまはもう存在しないロケット3号店パソコン館(千代田区外神田1-4-6)を想定していた。

 旧ラジ館の6階に入っていた富士通のサポートショップ、富士通マイコンスカイラブともども、高校時代の筆者が学校帰りにこっそり立ち寄った思い入れの深い店舗なのだが、残念ながら写真資料などが発見できず、作画段階でまったく異なる店舗になっている。コンパクトデジカメの普及以前の時代、写真資料の確保はつねに困難を極めるものだ。

 この時代の秋葉原の様子をうかがう上で、大いに役立ってくれるのが、日本最初のPC雑誌として知られる『I/O』(工学社、1976年10月創刊)に毎号連載されていた“買い物ガイド”コーナーである。日本各地のPCショップの様子をレポートするコーナーで、とりわけ東京の秋葉原、大阪の日本橋については手描きのマップが掲載されていた(残念ながら、1990年代になると掲載されなくなっている)。

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『I/O』誌“秋葉原地図(まっぷ)”

 今回は、マンガ家のすがやみつる氏からご提供いただいた、秋葉原の写真を以下に紹介させていただく。同氏には、アニメの資料面でもご協力いただいているので、この場を借りて深く御礼申し上げる次第である。

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1983年の秋葉原駅(左)、宝田無線(右)。提供:すがやみつる氏。
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1983年のラジオ会館(左)、九十九電機(右)提供:すがやみつる氏。
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1983年の九十九電機。提供:すがやみつる氏。
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2004年のラジオ会館。正面には同年7月15日に発売されたプレイステーション2用ソフト『デジタル・デビル・サーガ 〜アバタール・チューナー〜』の広告が掲出されている。提供:すがやみつる氏。

 コンピュータというハードウェアが普及するとなれば、必然的にソフトウェアの需要が高まるもので、秋葉原の各店舗にはゲームを含むPCソフトが並べられた一画が出現していくことになるわけだが、そうした需要に着眼して全国津々浦々に出現したのが、PCソフト専門のレンタルショップだ。

 1980年代において、とりわけ有名だったのが、ほかならぬソフマップである。

 当初は秋葉原ではなく、学生の多い高田馬場に店舗を構える会員制レンタルショップとして開業したこの会社は、ひところは秋葉原のみならず神田や渋谷にも直営ショップを出店していた。

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『テクノポリス』1983年4月号(所蔵:RetroPC Foundation)
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『テクノポリス』1983年4月号掲載の、ソフマップの広告。(所蔵:RetroPC Foundation)

 やがて、ソフトウェアの著作権をめぐる法整備が進むと、同社は1985年にレンタル業から中古販売・買取業へと事業転換をはかり、現在の姿にいたるわけだが、レンタルショップ時代のソフマップの会員カードを往時の記念品として後生大事に保存している古参PCゲーマーを見かけることがある。

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 その後、PC-98の最盛期を経て、秋葉原はむき出しの“萌え文化”が炸裂するゼロ年代へと突進していく。

 この時代に至る転換点として、秋葉原駅前にゲーマーズ本店──「にょ」のイラストが印象的な、いわゆる“でじこビル”がオープンし、プレイステーション版『To Heart』の広告がJR秋葉原駅電気街口改札の床に堂々と出現した1999年が挙がることがあるのだが、この年は秋葉原の“萌え文化”の中心地としての秋葉原の出発点というよりも、完成した年だと言える。

 コミックとらのあなの1号店、2号店が秋葉原に開店した1994年にその決定的な第一歩があった。アダルト向けの美少女ゲームの映像が、堂々と店頭で流れ始めたのもだいたいこのころで、筆者がはっきり意識したのはPC-98版『魅惑の調書』(1995年12月、BLACK PACKAGE)のデモをメッセサンオー(本店?)の店頭で目にしたことだった。

 当時、週に2~3回は秋葉原に足を運び、アルバイト代をPC-98のソフトとハードにつぎ込んでいた筆者が、「いよいよエロゲーのデモもおおっぴらに流す時代がきたのか、すげえな!」(大意)と感動を覚えたのがこのときなのだが、印象に残っていないだけで、実際にはそのもう少し前には流れ始めていたのかもしれない。

 少なくとも、『痕』(1996年7月、Leaf)が発売されるころには、そうした光景は秋葉原ではさほど珍しいものではなくなっていたはずだ。

 ちなみに、この時代の秋葉原の姿は、意外なところで確認できる。

 『POSTAL』という1999年発売のPC向け海外製2Dシューティングゲーム用の追加コンテンツとして発売された『ポスタル パワーアップキット日本語吹き替え 東京・大阪版』(1999年、マイクロマウス)に、秋葉原マップが実装されたのだ。

 なお、この伝説の秋葉原マップは、2016年発売の『POSTAL Redux』にも収録されたようなので、ある程度ディフォルメされてはいるが、1990年代末期の秋葉原の町並みを体感することが可能である。

 秋葉原駅北口側にあった青果市場が1990年に移転した後、その跡地は大きな広場になって、バスケットコートなどが設置されていた。2001年7月31日に閉鎖されたこの広場の跡地は現在、秋葉原クロスフィールドとなっている。

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2001年4月28日、プレイステーション2用ソフト『グランツーリスモ3 A-spec』発売イベントが例のバスケットコートで行われていた。

メイドさんがやってきた

 残念ながら『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』の本編では、1999年の後は2020年代に飛ぶので、“萌え文化”がどぎつい花を絢爛に咲かせるゼロ年代については描かれないのだが、この時代はこの時代でじつにおもしろい時代だった。

 筆者が国産のAT非互換パソコン文化にまつわるWEBサイトを開設し、関連の書籍や記事を執筆したり、秋葉原を中心に各地の中古ショップを渉猟したりし始めたのもこのころで、さらにダイナミックに変化していく秋葉原の姿を一喜一憂しながら楽しんだものだった。

 たとえば、 “萌える街”としての秋葉原を特徴づける大きな要素として、 “メイドさん”の存在がある。最盛期に比べるとだいぶん少なくなりはしたが、秋葉原の路上では現在も、どこかしらのショップなりカフェなりの店員であろう洋風メイド姿の女性のが散見される。

 彼女たちの出現は今世紀に入ってからで、『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』本編の20世紀最後の時系列、1999年(第9話)の路上にはまだ存在しないのだが、起源というわけではないにせよ、PC-98時代の美少女ゲーム文化と密接に結びついたキャラクター属性なので、その歴史を簡単に紹介する。

 美少女ゲームのメインストリームに、はっきりと今日的な姿・設定のメイド・キャラクターが登場したのは『Rance 光をもとめて』(1989年、アリスソフト)に遡るが、この時点では名前のついていないモブキャラクターだった(リメイク版の『ランス01』で「クリン・ビゥ」という名前がつけられる)。

 メインヒロインとしての登場は1993年で、『禁断の血族』(1993年11月、C's ware)、『河原崎家の一族』(1993年12月、シルキーズ)が近い時期に発売されている。

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1993年発売の『禁断の血族』(発売:C's ware/写真はFM TOWNS版)のメインヒロインは、薄幸のメイド・さよりだった。なお、続編『GLO・RI・A ~禁断の血族~』では前作の主人公ともども……(所蔵:RetroPC Foundation)

 これらの作品の直接的な影響源は、人気美少女OVAシリーズ『くりいむレモン』の第11弾『黒猫館』(1986年)だ。上流階級の貴婦人の乱れた性生活を描く過程で、薄幸のメイド少女がいたぶられる展開のあるヴィクトリアン・エロチカ小説と、映画『レベッカ』(1940年)に代表されるいわゆる“館もの”ミステリの流れをくむ作品で、戦争の暗雲がたちこめる昭和初期を背景に、山中の洋館で繰り広げられる淫靡な物語と、メインヒロインの“大室あや”のキャラクター造形は、PC-98時代における美少女ゲーム的メイドのアーキタイプとなった。(ちなみに、PC-98用のゲーム版が同じく1993年に発売されてもいる)

 なお、『黒猫館』の前年である1985年にフジテレビの世界名作劇場枠で放映された、女中に身を落とした良家の少女が執拗にいじめられる描写が知られる『小公女セーラ』が、より早い時期の影響源として挙げられることがある。

 『黒猫館』や前述のゲーム2作品の影響はあまりにも大きく、当初は館ものとセットになりがちだったメイドヒロインだが、それ以前から登場していたウェイトレス系ヒロインの新しい制服ヴァリエーションとして認知された部分もありつつ、伝統的文脈から切り離されたキャラクター属性として様々な作品に登場しはじめた。1995年には、『電脳Beppin』1995年6月号(英知出版)において、専門誌では最初のメイド特集が組まれている。

 こうした需要をとらえたのが、1996年にBLACK PACKAGEから発売され、口コミで大ヒットした『殻の中の小鳥』だ。“館もの”におけるメイドは性的な奉仕を強制される存在であり、“調教”、“お仕置き”といったワードがつねにつきまとう存在だった。この点に着目した『殻小』の制作スタッフは、前年発売の『SEEK』(PIL)が開拓した調教SLGと組み合わせ、メイドたちに性技を仕込んで特殊な接客を行い、稼いだお金で更に調教するという“メイド調教ゲーム”を作り出した。

 ちなみに、1997年夏のコミックマーケット52に、同作に登場するメイド服(自作)を身に着けたコスプレイヤーが出現したことは有名で、クラシックなヴィクトリアン・タイプのメイド服に限定した話ではあるが、これがコミケ史上最初のメイドコスだと考えられている(それ以前にも、『不思議の国のアリス』などの作品をイメージしたエプロンドレス姿のコスプレイヤーいたとの話もあるが、ピンクハウス系のフリフリ服が中心だったようだ)。

 このあたりについては、メイドカルチャーの研究家である久我真樹氏の『日本のメイドカルチャー史』上・下(星海社)にまとめられているので、詳しく知りたい方はそちらを読んでみてほしい。

書籍『日本のメイドカルチャー史』(星海社 公式サイト)
書籍『日本のメイドカルチャー史』(上)の購入はこちら(Amazon.co.jp)

 さて、肝心要の秋葉原との接点だが、1999年夏、秋葉原のゲーマーズスクエア店6階にて期間限定(1999年7月22日より)で営業された“Piaキャロレストラン”に始まっている。

 『Piaキャロットへようこそ!!2』(カクテル・ソフト、1997年)のゲーム中に登場する制服を着用するウェイトレスたちがリアルに働いているというコンセプトカフェで、その中にメイドタイプの制服が含まれていたのである。ちなみに、この制服は同作の制作時、『E-LOGIN』(アスペクト刊/当時)誌上での読者投票の結果採用されたもので、当時、コスチュームとしてのメイド服が美少女ゲームユーザの間で相当に人気が高かったことが伺える。

 “Piaキャロレストラン”の営業期間中はビルの階段に行列が絶えることなく、1時間待ちはザラだったようだ。こうした需要を受けて、翌2000年にジーストア・アキバの6階にて“Piaキャロレストラン”のコンセプトを受け継いだカフェ・ド・コスパが開店。この店舗がさらに、2001年に経営母体が変わったタイミングで制服をメイド服に統一、店名を2023年現在まで続く“キュアメイドカフェ”に改めた。これが、“メイド喫茶”あるいは“メイドカフェ”誕生の瞬間である。

 翌2002年7月には、パソコン専門店T-ZONEがメイド喫茶Mary’sを開店(2002年10月より経営母体が関連会社のジェイ・ノードに変わり、店名も Café Mai:lishとなる)したのを皮切りに、秋葉原には続々とメイド喫茶が登場。その波はやがて大阪の日本橋へ、さらには全国へと広がっていったのだ。

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キャプション:2002年7月20日に撮影されたMary’s(現 Café Mai:lish)の様子。
(撮影者:草野貴之)

そして、幻想の秋葉原

 コノハが過去の世界でとった行動によって引き起こされたバタフライ・エフェクトは、秋葉原という街を我々の知らない姿に変貌させた。

 とはいうものの、そこは現実の歴史では潰えた別の可能性が現出した世界でもあった。具体的に言えば、第2東京タワーである。

 現実に建設された“東京スカイツリー”を意識して、作中では“秋葉原スカイタワー”と名付けられているその建造物は、ひとたびは実際に計画されていたものだった。

 放送や通信に使用可能な電波の周波数は、技術的な理由から限られている。この問題は、前世紀末からの携帯電話の爆発的な普及によって1990年代末期に浮き彫りになったもので、可及的速やかに電波の使用量を減らすべく、地上波放送をアナログ方式からデジタル方式に切り替えなければならなくなった。

 これを受けて、総務省では2001年7月24日に電波法を改正、放送普及基本計画と放送用周波数使用計画が変更されて、2011年7月24日までに現行のアナログ方式の地上波放送を終了、デジタル方式へと完全移行することが国の政策として決定された。その過程で持ち上がったのが、新たな電波塔となるべき第2東京タワーの建設計画で、その候補地として真っ先に持ち上がったのが首都圏最大の電気街、秋葉原のど真ん中だった。

 このニュースの初報は2001年2月2日付の読売新聞に掲載された記事で、当時は駐車場になっていた駅前広場(現在の秋葉原クロスフィールド)から、山手線の路線を挟んだヨドバシカメラのあるあたりまでが、高さ600メートルに及ぶ世界最大級の電波塔の建設予定地として「ほぼ確定した」と報じられていた。

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 当時の秋葉原は、東京都知事・石原慎太郎が2000年にぶちあげた“秋葉原シリコン・アレープロジェクト”、さらには“東京構想2000”などの都市計画において、「ITソフト産業が集積するニュータウン」、「電気街が持つ魅力や世界的知名度に支えられた集客力を活用し、コンテンツ創造産業やASP・ISP事業などのIT関連産業の集積を促進していくことにより、高付加価値なビジネス市場を創造するとともに、IT関連産業の世界的な拠点」と位置づけられ、“常磐新線”と呼ばれていた秋葉原─つくば間を結ぶ新路線の工事もすでに始まっていた。

 “つくばエクスプレス”という路線名は一般公募で決まったもので、奇しくも第2東京タワーのニュースが報じられたのと同じ2月2日付のプレスリリースで発表されたものである。

 現実には、用地の確保が困難であるなどの理由から、第2東京タワーを秋葉原に建設する計画は立ち消えとなるのだが、1999年にアルコール・ソフトの『ラスト・ワルツ』が発売されたことが、秋葉原の再開発計画にいったいどのような影響を及ぼしたのか――そんなことに思いを巡らせてみるのも、この作品の楽しみかたのひとつかもしれない。

 ちなみに、この計画が頓挫しなかった世界線の秋葉原を描く作品として、2002年9月に発売されたニトロプラスの『“Hello, world.”』(作中では“秋葉タワー”)がある。

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