インタビューはニンテンドーミュージアムの設立の経緯から始まり、宮本氏が考えていること、ミュージアムが持つ役割、そして、任天堂の将来像にも話が及ぶ貴重なものになった。本インタビューを読んだ方には、以前に宮本氏が“文化功労者”に選出された際に行ったインタビューも読んでいただきたい。
ここにいたったのは、まず何年か前からずっといろいろな資料を残してきたんですね。とくにアーケードゲームのころの資料などは、そもそもゲーム機が動かないと意味がないので、それを動く状態で置いておくというのがすごくたいへんで。
それ以外に、ゲームもライセンシーさん(サードパーティー)のソフトを含めると、毎年何百本って残っていく。そのパッケージなどをただ置いていてもしょうがないので、なんとか管理していかなあかんよねという話がひとつありました。もう一方で、毎年新入社員が100人から200人入ってくるので、僕は任天堂のことを説明をする新入社員セミナーのような講座を持っているんですが、だいたい2時間しゃべっていたのが2時間半になり3時間近くなっていくという膨大な話になってきて。そのほとんどが「任天堂とはなんぞや」という説明をする時間なんですね。
で、それなりにおもしろがってはくれるんですけど、20年くらいやっているともういい加減にそこを引退したいよなと思うようになってくるわけですが、そのときにしゃべっている話がニンテンドーミュージアムの展示のベースになっています。
あと任天堂の社員からも、開発の中でたとえばWiiを作るときにウルトラマシンの思い出があったり、ラブテスターという得体の知れない、“ふたりの愛情度を測ります”というとても怪しい商品、ああいうのを15000円で売っていたのかという思いもありますけれど(笑)、そういう商品にすごい思い入れがあったり、任天堂愛の強い開発者がたくさんいて、Wiiのときにはそういう人たちが積極的にいろいろな開発をしていってくれたんですね。それがいまの『ゼルダの伝説』などで300人、400人とかの人数で開発するようになってきて、さらに何千人というスタッフになってきたときに、果たしてそういった想いが残していけんのやろうか、引き継いでいけんのやろうかと。そういった“任天堂らしさ”というのをちゃんと維持していくようにせんとあかんよね、ということが任天堂社内でも話題になるようになってきたんですね。
そういうことを話しているときに、ちょうどここにあった宇治の工場をどうしようか、極端に言うともう売ったらいいんじゃないか、といった話しも出てきたんです。でもここは我々の工場の創業、思い出の場所なんで、なんとか残していきたいと模索しているところで、ちょうど「ミュージアムにしたらどうですかね」という話題が出てきたんです。鳥羽街道にも元々の本社があって、そこにするか宇治のここを使うかという選択肢があったんですが、結果的にこの宇治小倉のほうがバスのアクセスなどがいいこともあってここに決めました。だから、いろいろな諸条件が集まってできたんです。
任天堂の過去の資産を全部残して、それを通じて任天堂が何なのかを理解してもらうというのであれば、それなら社員だけではなく、いま親子3世代まで任天堂のことを知っている人たちが出てきてくれたので、その皆さんに見てもらって任天堂がわかってもらえたらいいなと。そうやってわかってもらって、ハイスペックとか、ゲーム機の性能をどうするかみたいな“ゲーム戦争”と言われたりする競争に任天堂を巻き込まないでほしいと(笑)。任天堂はいまの世の中のいろいろな技術を使って任天堂らしいもの作りをずっと続けていくし、ゲームに限らず映像もやっていきますし、いろいろなエンターテインメントのコンテンツを作っていく会社なんです、っていうことを理解してもらうのにいいきっかけかなというので作ってみました。一気にしゃべりました(笑)。
展示のすべてをローカライズしているわけではないんですが、海外の人にも見てもらうことを前提に、できるだけ見てわかる展示に徹しています。体験コーナーも、たとえば百人一首なんて日本語のものをやっていいのかという考えもありました。百人一首協会からは怒られるかもわかんないですが、本来は字札が取り札なのに絵札を取り札にして、しかもお姫さんとかお坊さんとかを踏んで歩いているという(笑)。そういうことをやって、そこでいろんな体験をしてもらって、グローバルにいろんな人たちが「任天堂はおもしろいことを、インターフェースも含めてわかりやすく使いやすく、おもしろさを伝えることが上手な会社なんだな」と思ってもらえればいいなと思って作っています。
さっきお話したように、このミュージアムはビジネスで展開しているのではなくて、 任天堂のことをわかってもらうため。任天堂の社員が任天堂を理解するためという目的で作っているので、あちこちに展開するつもりはまったくありません。どちらかと言うと、この中でもうちょっとこれからどう広がっていくのかを考えています。たとえばいま取材をしているこの部屋は、僕が勝手にアートギャラリーと呼んでいまして、たぶん端からマリオのドットやコースの地形のラフスケッチや最終スケッチが並んでいって、ぐるっと回ると『スプラトゥーン』や『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』などの新しいタイトルのイラストなどが飾られる場所になっていくと思います。将来的には、これから映像タイトルが増えていったら、どこかで映像を見てもらえるようにしたらいいのではないかといった風に、任天堂の展開に合わせて増殖していくと思います。
――博物館内の展示エリアの中で宮本さんが直接設計したものや、宮本さんにとってとくに思い入れの深い記念的な展示品はありますか?
各ハードウェアの展示の裏側はそのハードのコンセプトに関する展示になっているんですけども、そのハードで任天堂が世界で初めてやったこと、任天堂がチャレンジしたこと、多少無理をしながらも挑戦したこと、このハードで初めて生まれたキャラクター、そのハードのテーマ、ニンテンドウ64だったら“ゲームが変わる。64が変える。”みたいな、心意気などが書いてあります。ご興味があれば、ゆっくり見ていただければと思います。
個別の展示という意味ではちょっと離れますが、大型のコントローラーがある1階のフロアの横にコントローラーだけの展示をしている部分があります。ここが“コントローラーの進化”という内容で、新入社員研修でもやるんですけども、業務用の『ドンキーコング』から始まり、ゲーム&ウオッチにどう移植しようかということで十字ボタンが生まれて、それがファミコンでプラスの形をした十字ボタンがジョイパッドのスタンダードの原型になっていき、スーパーファミコンではLRボタンが付いて、ロクヨン(ニンテンドウ64)でアナログのスティックが付くと。そして、Wiiではモーションコントローラーやポインティングなどいろいろな技術を出していた。ほとんどが世界初、ゲーム機では初めてですということをいちおう僕らのプライドにしていて、そこに取りまとめてありますので、よかったら見ていってください。
――USJでドンキーコングエリアが新設されたりと、任天堂のIPに触れる人口の拡大を目指す中でニンテンドーミュージアムというのは、非常に有効な手段だと感じます。今後、その任天堂IPの拡大を目指す中で、どのような企業像を目指していくのかをお聞かせください。
ただ、やっぱりみんながしっかり覚えているのはIPなんですよね。ゲームは新しいバージョンに変わっていったら、もう動かなくなっていく。これがすごい寂しくて。映像を始めたのも、じつはバーチャルコンソールでしか僕らの作ったものは遊べなくなっていくのかっていう寂しさがあって、ミュージアムで遊べるようにしても限界がありますし、一方、映像だといつまで経っても残っているというのが理由のひとつですし、そういったものがどんどん増えていって、任天堂全体が大きなブランドになるといいなと。僕いまいつも言っているんですが、「任天堂を選んでもらえる理由を作る」ということをテーマにしていまして。子どもが小学1年生になったときに「じゃあ任天堂の何を買おう」という“任天堂のゲームを買う”ではなく、「小学生1年生になったら任天堂を買ってあげる」という世の中になったらいいなと思ってます。
――ニンテンドーミュージアムのロゴの色味はどのように決まったのでしょうか? 京都の景観条例などの配慮があるのかとも思ったのですが……。
京都なんだからってことで、単純にパープルの任天堂をやりたかったんですけど、現場としては建物全体をシックに抑えているのでパープルは色がキツイと。それでこのロゴの色ですが、じつは“ミュージアムグレーパープル”と呼んでいるんです。僕が「パープルじゃないやないか」って言うから言い訳のようにグレーですけどパープルと(笑)。
――さまざまな作品がこの京都から生み出されたということで、娯楽を生み出すうえでの京都という土地の魅力ってどのように感じますか?
それからもうひとつは、京都に僕がいたことで、一時期30歳くらいになると「京都の田舎にくすぶっているとデザイナーとしてダメになる。だから東京に出ていかなきゃ」とか、いろいろなことを言われたり、自分でも思ったりしたことがあるんですけど、そのはしかのようなころを過ぎて、40歳くらいまでここで仕事をしていると、なんか妙に、30歳くらいでいっしょに仕事を始めた仲間が全部いっしょにまた仕事をしていて、なんか作ったものが世界で売れていると。それをなんでかなと思うと、東京に行くと東京で流行っているものに誘われて、それで日本で売れるものを作る。で、逆にそれをすることで、日本でしか売れないものを作っていることにわりと気づかないのではないかと思うようになってきました。だから僕は東京ローカルって社内では言っていて。京都がグローバルというのではなく、東京はローカルであって、そういう思想で(東京に)行くんなら、せめてニューヨークって言えよっていう風に思うようになりました。で、そういうことをどうして感じて言えるようになったかというと、京都にいるコンプレックスがなかったんですね。
たぶん僕は丹波の田舎の出身なので、田舎のコンプレックスを持ち続けていたら「いずれは東京へ」とか「東京でどうだ」、「俺は東京へ来たぞ」と思うかもわかんないですが、ここでのんびり仕事できたっていうのは、京都にいるとそれなりの人もちゃんと残ってくれるし、京都に好きな人が働いていて、それで京都の中で何をするかというと、まわりに踊らされずに自分たちが信じるものを作る。その結果、けっこう世界中で売れてるやないって。そうすると、じつはいちばん内部にあるものがグローバルで、グローバルって言われているものは別にグローバルじゃないんやないかという風に、40歳くらいになると思うようになって、いまはもうそれを若手に吹き込んでいます。ミュージアムと関係がないですね(笑)。
あとはここまで積み上げてきたので、その流れからあまり逸脱していないものをみんなが作ろうとすることで、任天堂らしさっていうのができていくと思いますし、一方でいま言っていただいたチャレンジをいつもしているので、変革を望まないのではなく、チャレンジで新しいものを作っていくけど、ベースに流れているコンセプト、それは家族であったり、遊びであったり、わかりやすさであったりで、そこはちゃんと守って作っていこうというのが社員に根付いていけば、ずっと新しい任天堂が膨らんでいくと期待しています。引退の言葉みたいですが(笑)。
――ファミ通です。2階の展示では解説の文章が少なく、見てわかるものにされているように感じました。そのあたりは、やはりグローバルな来場者を意識しているのか、また解説などの文章があったほうがいいのではないかといったお話があったのか、といった点をうかがえますか?
ファミ通 ありがとうございます。その際にはよろしくお願いします!
――こちらのミュージアムは館長がいないという認識でよろしいでしょうか?
――リクエストなんですが、ずっと館長を置かないのがいいんじゃないかなと思いまして。宮本さんをはじめとした、人の名前と人の写真がほぼない状態でここまでのミュージアムができるということは、これまでに例のないものだと思いますので、いっそのこと一生涯館長なしで作っていただきたいなと。
あれは建物を建てるときに基礎にサインをするんですが、 みんなでサインをして最後埋めるので剥がしたときに出てくるというものとして書いたんですね。誰もその後は書かずに、「せっかく書いてあんのやから見せたらどう」っていうので、窓をくり抜いて見せています。ここ数ヵ月、あれを何でふさごうかという話をずっとしているんですけど、「いや、あれはあってもいいんやない」っていう社内の人も多くなってきたので、いまのところ残しています。申し訳ないですけど。それ以外には、個人名はほとんど出てこない構造にしています。
――このオープンに合わせて地元の宇治市を取材していますが、期待している声が多く聞こえてきました。京都にとって、地域にとってどういう施設になっていきたいかという思いをお聞きできますか?
まだ近鉄の小倉駅はバリアフリーになっていないんですよね。それでちょっと迂回した踏切を通るようになっているので、これも近い将来バリアフリーにしていただけることになっています。
――ミュージアムには任天堂の歴史で生まれた製品が展示されていますが、これから生まれる製品も今後追加されていく予定なんでしょうか?
――あくまでもいままでの歴史で、これからもし新しい資料を展示するとなると、新しい用地を用意されるということでしょうか?
いま全部遊んでいただくとなると、1日に500人くらいしか入ってもらえない。でも、やっぱり最低でも1500人から2000人くらいは入っていただけるようにして運営したいと思うので、いまのコイン枚数でもかなりきびしい状態になるのは覚悟で試していってます。
――リピーターと言いますか、何回も来てほしいというイメージがあるのかと思ったのですが……?
宮本茂氏のインタビューを読んだうえで、ニンテンドーミュージアムのリポートを読むと、いろいろな展示の持つ意味を感じることもあるだろう。ぜひニンテンドーミュージアムのリポートや、過去の宮本茂氏のインタビューもチェックしてほしい。